下ケ傍示(さげぼうじ)村 二ノ袋村

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 下ケ傍示村を知行した宮城氏については、柿餅村のところですでに述べた。寛政五年段階では、村高は寛文八年の三九石から一六六石余と大幅に増加し、領主も宮城氏に代わって旗本筧助兵衛が一四〇石余を知行し、また持添新田分二五石余を代官篠山十兵衛が支配している。
 筧氏は、初代為春が関東入国後、相模国で一九〇石余を与えられ、元和元年の大坂の陣のときには、木崎村を知行する高木主水の組に属して参陣し、その戦功によって加増をうけた。さらに、寛永十年までに一〇八〇石を、また二代元勝が慶安二年までに一四八〇石を知行するまでになった。四代為勝のとき、元禄十年に武蔵国埼玉、下総国印旛二郡の知行地を割いて山辺郡に移され、そのとき、下ケ傍示村も同氏の知行地に組み込まれた。
 二ノ袋村九石の寛文八年の領主は、旗本山寺弥太夫である。山寺氏は、代々武田氏の家臣であったが、天正十年に武田氏が滅亡すると、二代信昌は、家康に恭順の意をあらわし、のち北条氏と対陣して軍功をあげ、甲斐国で一〇〇貫の本領地を治める朱印状を宣下された。寛永十九年に、三代信光が甲斐の旧地で三九〇石余を与えられ、五代信久のとき、寛文元年に甲斐の領地を山辺・埴生二郡に移された。その際、二ノ袋村も同氏の所領するところとなった。
 寛政五年には、山寺氏の名はなく、代官篠山十兵衛および清水領知の支配となり、村高は一八二石余と急激に増大する。二ノ袋村のうち町域に編入されたのは、面積にしてごくわずかで、民家も皆無であった。