同村に特徴的な支配形態は、近世を通じて与力給地が、給数にしても、また給高にしても相当多いということである。寛文八年の村高四〇〇石の所領内訳は、大導寺孫太郎四一石、宮城主殿四九石の二旗本のほかすべて与力給地となり、その与力給地は五組で三一〇石を支配する。寛政五年時点では、与力給地は三組に減り、代わって篠山十兵衛代官領と旗本石原伊織知行地が新しく出てくる。そして、幕末段階では、宮城氏、大導寺氏、石原氏の三旗本の知行はそのまま続き、代官領が消えて水野氏(鶴牧藩)領分二二一石余が新たに加わる。
石原氏については、寛政五年で石原織部となっているが、当時織部という名前の者は石原姓では見当らない。