四天木村

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 四天木村は、「四天王が流れ着いたところ」という意味から、古くは「四天寄」とも書かれた。成東町松ケ谷(旧緑海村)に勝覚寺という真言宗の寺院があり、この寺に持国・増長・広目・毘沙門の四天王像が安置されている。これらはかつて改宗令のころ海中に投げ入れられたものが、九十九里浜に流れ着いたもので、その漂流先が当地であったところから「四天木(寄)」と名づけられたと伝えられている(「南遊紀行」「山武地方誌」)。その仏像については、仏像そのものではなく、その材料である木材であったとする異説もある(「北総国誌」「房総志料」)。
 九十九里浜に面する四天木村は近世中・後期より新田が積極的に開発され、近世初期五六〇石の村高であったのが幕末期には九二六石余と顕著な伸びを示す。この点については、後述の浜芝地の開発のところでさらに詳しく触れることにする。
 寛文八年に同村を所領していたのは、宮城主殿三〇〇石と新庄与惣兵衛二六〇石の二旗本である。旗本新庄氏は、新庄直頼の二男直綱が分家した家で、寛永十一年に甲斐国二郡で一〇〇〇石を与えられ、代々それを襲封した。二代直方の寛文元年に甲斐国の知行地を山辺・武射・長柄三郡に移され、そのときから四天木村のうち二六〇石を支配した。
 また、寛政五年段階では、宮城氏の知行はなくなっており、新たに赤井主計が知行し、ほかに篠山十兵衛代官支配地があらわれる。
 赤井氏は、赤井時長の二男時重が時長の父、つまり時重の祖父に当たる時直の養子となって、時直の養老料として下賜されていた千葉郡の領地五〇〇石を寛永十三年に継いで興した家である。二代の直矩が元禄十一年に千葉郡の領地を山辺郡に移されたときから、四天木村の一部が同氏の知行地となった。