今泉村

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 寛文八年に今泉村を所領していた水野氏は、織田信長に属した尾張武士忠分(ただちか)の二男義忠が興した家である。義忠は小田原攻めに家康に従って参陣し、翌天正十九年にはすでに山辺郡土気庄などで二〇〇〇石を宛行われ、同二十年にその朱印を下付された。二代忠保のとき、寛永二年に新田を合わせて二一六〇石を所領し、同十年に長柄郡で七〇〇石の加増があり、のちに新田分も加えられて全部で三〇〇〇石を知行することになった。その後、四代忠清が延宝八年(一六八〇)に遺領を継いだとき、弟忠重に五〇〇石を分与したため、水野氏は代々二五〇〇石を知行した。水野氏の今泉村での知行は幕末まで続き、このような近世初頭から幕末まで一貫して同じ領玉が所領する例は稀で、同村は、その間持添新田として開田された新開分が代官領となるだけで、領主支配には大きな変化はなかった。
 ところで、今泉村は、富田村と同様行政単位としては一村で把握されていたが、領主支配や年貢徴収など機能的な面では南北に分かれていた。