(1) 町域村々の所領配置の特徴

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 後述するように、寛永・元禄の地方直しを経て、町域村々の所領配置には大きな変化がみられた。町域には、三浦氏断絶後、歴代の佐倉城主や米津氏など二、三の大名が、村々の一部を支配することはあっても、特定の大名が数か村をまとめて所領することはなかった。町域村々に配置された多くは旗本であり、その支配形態も関東領国に一般的にみられる分散相給(あいきゅう)形態を特徴としている。そのことは、表2からはっきりと読み取れる。
 
表2 大網白里地域の支配の錯綜度
給数寛文8年明治元年
村数%村数%
1給25581225
2給9211735
3給410613
4給1248
5給25511
6給1212
7給1224
11給12
合計4310048100
注1)  史料は表1と同じ。
注3)  寺社領は除いた。

 寛文八年時点では、四三か村中、一給支配の村は、二五か村で全体の五八%を占め、相給支配より高い比率を示している。それでも相給率は四二%とかなり高く、この高い相給率の数値が、寛永の地方直しの結果もたらされたものであることは想像に難くない。それが、次の元禄の地方直しを経ると一層高くなり、明治元年の支配状況では、一給支配の村は、四八か村中一二か村と比率にしてわずかに二五%を示すだけで、あとはいずれも複数の領主が一村を支配する相給形態をとっている。なかでも大網村は、代官一、旗本九、大名一という一一給もの相給形態となっている。これまでみてきたように、各村では元禄以降大規模な所領替えが行われていないことから、幕末段階の所領配置は概ね元禄期以降の支配形態を表現しているとみなしても差し支えない。なかには享保年間に新田開発が行われて、その新開分が代官支配地となったため給数が増加した村もあるが、多くの村は元禄の地方直しによって給数が増えた。
 そこで次に、旗本の分割分散知行を特色とする町域村々の所領配置の実態について、さらに詳しく調べてみよう(表3)。同表を一瞥して気付く点は、寛文八年と明治元年を比較した場合、領数にして六一給、全体の所領高で約三七〇〇石増加するほかは、領数比率では一三%強の代官領、七〇%強の旗本領とも大きな変化はなく、また所領高では代官領が半減して、大名領がわずかに増加している程度で目立った変化がないということである。領数や所領高の比率構成には大きな変化は認められないが、旗本領が寛文八年の六二給から一〇一給に極端に増えている点は留意する必要がある。ともかく、同表からも明らかなように、町域においては、旗本領が圧倒的に多く、領数で七〇~七五%、所領高で八〇%強を占め、旗本による分散相給形態が所領配置上の大きな特色となっている。
 
表3 大網白里地域の支配の実態
 
支配別
寛 文 8 年明 治 元 年
領数%所領高%領数%所領高%
石  石   
代官領1113.32348.91713.71913.21654.0348 7.9
旗本領6274.714068.83582.010170.117030.5139 81.7
与力給地56.0310.  1.842.8343.7818 1.7
大名領44.8406.  2.4128.31679.129018.1
寺社領11.220.  0.185.6135.313 0.6
8310017153.75210014410020842.77251100
注1)  史料は表1と同じ。
注2)  寛文8年には寺社領として1寺だけしか記載されていないが,これは当時他に寺社領が存在しなかったというのではなく,史料作成時の調査の対象や性格が異なっていたことに起因しており,それらが欠落しても全体の比率には大きな影響はないので,史料のまま表示した。

 この旗本というのは、ふつう一万石未満の徳川氏直属家臣のうち、御目見(おめみえ)以上(以下を御家人という)といって将軍に謁見できる者をいった。知行形態により二つに分類され、一つは将軍から所領(知行地)を与えられる知行取(ちぎょうど)りで、他は米を支給される蔵米取りである。蔵米取りの旗本は、現米ないしは現金給与であるから、当然ながら村々との支配関係はなかった。いずれにしても、町域の村々では、領数・所領高とも旗本知行地が群を抜き、かつその支配形態も、代官領・旗本領・大名領が混在する分割支配が主体であったといえる。