(2) 寛永の地方直し

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 旗本領の比重が非常に高いという所領配置上の特色は、寛永と元禄の二度にわたる地方直しによって生み出されたものである。地方直しとは、一般に旗本の蔵米取りを知行取りに切り替えることをいい、地方直し自体は近世を通じて行われたが、規模の点でも、またそれが一斉に行われたという点でも、寛永と元禄の地方直しは、他の地方直しとは比べものにならないほど画期的なものであった。寛永十年前後に実施された地方直しは、とくに将軍の親衛隊といえる御書院番、小姓組番と、大番に属する一〇〇〇石以下の旗本に一律二〇〇石を加増し、またいままで蔵米取りであった者を地方知行に改めて二〇〇石、無足衆にも同様二〇〇石を与えるというものであった。この地方直しが行われたのは、物価高騰に困窮する旗本を救済するためであったとされる。しかし、それはあくまで表向きの理由で、基本的には幕府権力が確立しつつあるこの時期に、直属軍団としての旗本の創出、育成と、旗本組織の再編成、その上で新たな知行大系による旗本の掌握、究極的には旗本軍役体系の完成を目的として実行されたと指摘されている(北島正元前掲書)。
 この寛永の地方直しに際して当町域村々に地方直しをうけた旗本のうち、小中・平沢・宮崎村などに知行をもつ逸見、原田、千本の諸氏についてみてみよう。
 逸見氏は、義持の代に大番であったとき、寛永十年二月七日にそれまでの三三石の知行高に加えて二〇〇石を加増され、また原田氏は、種直のとき、大番に勤仕した同年同月日に二〇〇石を加えられてそれ以来四〇〇石を知行するようになった。さらに、小姓組に所属していた千本氏も、初代和隆が同じ日に二〇〇石の知行を与えられ、初めて知行取りとなった。こうして三氏が三氏とも同じ日に二〇〇石の知行地を新規に、あるいは従来の知行高に加えて、分村前の小中・平沢・門谷・宮崎で与えられたのである。右の四か村は、寛文期より元禄期にかけて一つの村から分村したが、幕末段階の三氏について、その知行状況をみた場合、逸見氏は四か村全部に、また残る二氏も三か村にそれぞれ分散して知行地をもち、三氏の各自の知行高を合計すると、いずれも丁度二〇〇石という数字になる(図3の付表2参照)。これは、寛永十年の地方直しのままの知行高が、分村したのちも四か村のうちにあったことを明示している。