(3) 木崎村の分郷

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 ところで、こうした地方直しが、相給形態となった場合には、村内ではどのような基準で分郷(わけごう)が行われたのであろうか。そのことを寛永十年にそれまでの一給支配から二給支配に分給された木崎村の事例で考察していこう。
 宝暦二年二月、木崎村では、村添新田の田地の扱いをめぐって相給の役人同士の間で争いが起こっている。この争論は、単に村添新田の取り扱いをめぐる問題だけに留まらず、寛永十年の本村の分郷の在り方にまで飛び火する争いとなった。相給の服部知行所の名主七十郎は、その説明(木崎 富塚勝男家文書。以下同じ)のなかで、
 
 御相給引分ケ之儀は、百弐拾年以前寛永十酉年御相給より百姓引分、田畑当分ニ引分ケ帳面被相渡候、依之当御地頭様右之帳面を以御年貢御上納仕来候、然処ニ右引分之帳面之儀、百姓銘々石高計書ぬき被相渡候、乍然、右帳面愚ニ無御座候付、無反別ニて御座候間、四拾三年以前宝永六丑年当御地頭様より御内改御願申上候得は、御聞届被遊、田畑御内改被成下、則帳面御拵御渡被下置候間、夫より右帳面を以御年貢・諸役等仕来候処、相違無御座候、尤 御公儀様御役・村役之儀も只今迄当分ニ勤来候所、是又相違無御座候
 
と述べている。この内容から、まず寛永十年に二給分割支配となって、それぞれの領主に帰属する「百姓引分(ひゃくしょうひきわけ)」が行われ、田畑については「当分ニ引分ケ」たことが知られる。そして、帳面は「石高計」りのものを宝永六年の「田畑御内改」めまで利用し、その各領主に帰属する農民の所持高の総体で年貢・諸役を勤めていたことが分かる。その「百姓引分」の実際の手続を知る手掛かりとして表示したのが、表4である。
 
表4 寛永10年 木崎村百姓分郷状況
元 和 9 年寛 永 10 年
所持反別所持高所持高
反   石   石   
七兵衛11.527 13.0735712.7598 七兵衛
長次郎9.108 10.401847.0006 勘左衛門
助兵衛9.411 9.977939.598 弥兵衛
源三郎8.017 8.9218912.5518 源五左衛門
八郎右衛門7.509 8.536298.4282 忠左衛門
隼 人6.713 7.412987.4448 三郎兵衛
源左衛門6.607 7.277241.39  玄左衛門
源七郎6.313 7.0746 4.7465 十郎兵衛
五郎左衛門0.710 0.88  0.88  七郎右衛門
清三郎0.605 0.65728
正国寺2.429 2.726982.6345 正国寺
9.493 喜右衛門
1.104 四郎左衛門
小 計77.9922 
(78.0312)
主 計15.219 16.7161711.4347 与左衛門
甚四郎9.312 10.4868815.4727 兵左衛門
新兵衛9.021 10.3945910.391 三四郎
新左衛門8.828 9.970619.4437 新左衛門
小五郎8.524 9.447849.2414 四郎兵衛
宗次郎7.609 8.39157
小兵衛6.7  7.1979415.854 小兵衛
五郎左衛門2.62  2.825972.7011 七郎右衛門
正国寺2.428 2.726982.6345 正国寺
0.82  弥右衛門
小 計77.9922 
(77.9931)
合 計155.09915155.9844 
注1)  元和9年「水帳田畑名寄帳」(寛延4年写,木崎 富塚勝男家文書)ほか同家所蔵史料より作成。
注2)  ( )の数字は,正確な集計数値。

 元和九年の一給支配のときの村高は一五五石余で、一七人の農民と正国寺との合計一八人によって村高が所持されていた。最大の所持者は主計で所持高一六石余、反別にして一町五反余であり、反対に最小は清三郎の六斗余、反別六畝余である。寛永十年でも小兵衛の約一六石が最高で、村内には特別大きな高持百姓は存在しなかった。こうした農民の所持状況を考慮に入れながら、寛永十年に地方直しに伴う分郷が実施され、「百姓引分」と「田畑引分」が行われた。後年宝暦二年の地所出入は、長左衛門(元和九年では五郎左衛門、寛永十年では七郎右衛門)の保有地である下田七畝一〇歩が、七十郎(元和九年、寛永十年とも七兵衛)によって所持されていることに対し、相給名主太平治がその不当性を訴えたことに端を発する。七十郎はこれに応えて
 
 右八斗八升長左衛門田地入訳之義ハ、寛永十酉年双方高七拾七石九斗九升弐合弐勺宛ニ、御相給百姓八人と寺半分也、此方組百性拾壱人と寺半分也、此内之人数ニ加え候、右高八斗八升此方不足致候間、七畝拾歩は切取候と見えたり、則両給引分ケ之帳面引合候処、筆流・印形相違無之割判合申候
 
と、まず長左衛門の田地が自分たちの知行地に含まれていることを論証し、次に、
 
 寛永十酉年引別レ之節、七郎右衛門(長左衛門先祖)と申て此方之百性壱人分と立たる者なり……右七郎右衛門と申は又木(またぎ)百性也
 
と七郎右衛門はもともと相給方に属する百姓であるが、村高を七七石九斗九升二合二勺ずつ分郷するとき、自分たちの組に不足が生じ、その不足分を調整するため、自分たちの方でも七郎右衛門を「壱人分」の百姓として取り立て、その結果、一人の百姓が二給にまたがって存在するという、いわゆる「又木百性」となったと述べている。
 こうして「双方七十七石九斗九升二合二勺ツヽニ、百性御相給八人半、此方十人半此内之人数ニ加」えることになって、服部知行所付きの百姓および寺は一一人半となった。無論、双方の「半」というのは、正国寺が「寺田畑之儀ハ如何引分ケ候哉、此義承度由申事ニ付、私申遣ハ、寺田畑之儀ハ双方またき百性ニ御座候」と、やはり「またき」として把え、七郎右衛門は百姓として両方の組に「壱人分」として把握されたが、寺は半々として掌握された。その場合、寺の所持地は、「田畑壱枚切に当分ニ引分ケ」られたのである。
 最後に、七十郎が五郎左衛門の田地を不当に所持しているという批難に対し、
 五郎左衛門分弐筆如何之義ニて其元所持致候哉承度由是又申事ニ候、私返事仕候ハ、弐筆ニて七畝廿八歩之処、拙者 御殿様御高之内七畝十歩、残て十八歩ハ引分、長左衛門所持致候、壱枚之内ニて十八歩引分候は引別候証拠ニ御座候、先年引分ケ候節、割合右之通ニ御座候、拙者所持致候ハ、先年引別レ之節、五郎左衛門と申者及大破候節、御年貢・諸役五ケ年不納致、此分拙者先祖立替、御上納仕候ニ付、依之右之田地 御殿様より被下置候
と反論し、五郎左衛門の名請地を七十郎が所持していることの正当性を主張している。つまり、この田地を七十郎が所持しているのは、分郷のとき七十郎の先祖が五郎左衛門の五か年間の年貢・諸役の未進分を立替えたため、「殿様」から下付されたと説明するのである。この土地出入の経緯を書き留めた訴状や返答書など一連の文書は、寛永十年の分郷の手続がどのようなものであったかを示唆してくれる。ここで重要な点は、分郷に際して、村高を均等に二分するため、百姓の所持高に応じて百姓を振り分け、一人の百姓が二人の領主に同時に帰属しないことを基本としながらも、高の調整のため五郎左衛門の所持地を自分たちの給分に組み入れ、相給双方で一人百姓として把え、それを「又木百姓」と特定したこと、その場合、田畑の等級が一方に偏重しないように等級別にできるだけ等分に引き分けたことなどである。それに加え、寺院は、所持高を折半して、田畑一枚切に「半」々が両方に帰属する点も留意する必要がある。また、宝永六年まで反別帳はなく高帳のみで年貢・諸役を上納していたことはとくに注目されよう。逆にいえば、そのことは、宝永期には従来のように高帳だけで年貢・諸役を徴収することはもはや不可能な段階にあり、新たに田畑の内改めを行って土地台帳を作成する必要が生じたことを暗示している。
 ともかく、この分郷の手順をみると、まず領主は所領高に応じて農民を分け、それぞれの農民の所持高合計が、自己の所領高と合致するように調整を行う。その場合、一人の農民が一方の領主だけに付属することが原則で、どうしても誤差が生じて所持高が調整できないときに限って、「またぎ百姓」として一人の農民が複数の領主に「壱人分」として掌握されることになる。こうして、この分郷においては、田畑の等級の均等化を勘案しながら農民の所持高でまず分けられ、どんなに耕作地が入り組んでいても、一人の農民が複数の領主に支配されることはないということになる。その場合、土地は、支配農民の所持する田畑がその領主に帰属することになる。後年になり、質入れ・質流れなどにより土地の移動が激しくなると、農民の所持高の把握だけでは、年貢・諸役を算出することが困難となり、「内改」めを行って各自の土地を正確に掌握することが不可欠となってくる。