元禄十年七月、当時の勘定奉行荻原重秀の建策によって、元禄の地方直しが布令された。それと同時に、幕府は、江戸から五里以内の地域を幕府の直轄領とし、江戸から三日ほどの道のりの地域内で領地を所領している非役の譜代小大名の領地を整理し、その跡地へ旗本を配属することを合わせて命じた。その立地基準からすると、町域の村々もその対象地となり、寛永の地方直しで旗本知行が支配的となっていた町域の村々も、再度この地方直しによって大幅な所領配置の変動をうけることを余儀なくされた。
三代将軍家光は、寛永年間以後、加増する知行については、原則として蔵米で支給したが、五代綱吉は、逆に地方直しによって知行取りへの切り替えを積極的に行った。その主因の一つに、農民側で新田開発が促進されたことにより、在地での知行高の増加が可能となったことが挙げられる。そのほか、領主が名目的な表高とは別に、内高を取り込んでいたため、実際の知行高と軍役とが照応しなくなってきたこと、また旗本の相次ぐ分家によって兵力の再編を行う必要に迫られてきたことなども、綱吉が地方直しを推進した大きな要因に挙げられよう。また綱吉は、四代家綱の弟ということで、館林城主時代の家臣を多数抱えており、この家臣団をまとめて直属軍団の強化を図るには、従来の蔵米取りから知行取りに切り替える必要があった。延宝八年から宝永六年まで三十年間将軍職に就いていた綱吉は、元老・門閥の合議制を主体としたそれまでの政治運営を転換させ、将軍専制の方向へと導いていった。その後の三四人を数える代官の罷免・厳罰や、四一家にも及ぶ大名の改易・除封を断行した背景にも、将軍権力の専制化の方策と併行して、三六〇万石に及ぶ旗本への知行取りへの回生にみられる旗本の再編成という政策があったのである。その意味では、元禄の地方直しは、その政策の集約点となったといえる。
こうして町域の村々は、江戸周辺地域に位置するため、幕府の軍事再編の一環として実施された元禄の地方直しによって大きな所領配置上の変化をうけることになった。この変化を元禄十一年に行われた清名幸谷村の分郷の例でみることにしよう。