(5) 清名幸谷村の分郷

321 ~ 324 / 1367ページ
 元禄の地方直しによって一村が複数の領主に所領される場合、村をいくつかに分割しなければならないことは、寛永の地方直しにおける木崎村の事例と同じである。清名幸谷村は、それまで村高四二四石余を戸塚氏一六三石、小幡氏一〇二石余の二旗本と、佐倉城主戸田氏一五九石余の一大名の合わせて三領主が分給支配する村であったが、元禄十一年七月、戸塚氏知行地を除いて、小幡氏知行地と佐倉城主戸田氏領地とは上知され、新たに杉田氏、中川氏、遠山氏の三旗本に与えられた。つまり、
 清名幸谷村高弐百六拾壱石六斗三升六合之内、今度御分ケ郷ニ被仰付、杉田八郎左衛門様御知行ニ本田四拾九石九升九合弐勺、新田三拾石六斗七升六合三勺相渡申
とあるように(清名幸谷 鵜沢照夫家文書)、上知分二六一石余を、この杉田氏をはじめ、中川氏、遠山氏の三旗本に分郷したのである。

写真 元禄11年7月分郷名寄帳
(清名幸谷 鵜沢照夫家文書)
 
 この分郷は、代官平岡三郎右衛門が指揮し、実際の任務は、手代の小宮山理兵衛と穐山甚八郎が担当した。表5で示すように、この分郷によって杉田氏と中川氏とが全く同じ知行高七九石七斗七升五合五勺を、また遠山氏が一〇二石八升五合をそれぞれ分給した。清名幸谷村は、天正十九年に検地をうけ、そのときの縄入高が表中の「本田」に当たり、その後寛永年間の初めに開発された新田分を「古新田」、さらにその寛永期から享保二十年までの間の未年に高入れされた新田分を「未新田」といい、享保二十年に高入れされた部分を「卯新田」と呼んだ。新田分のすべては、代官支配地に組み込まれたが、元禄十一年の分郷のときは、この「本田」・「古新田」・「未新田」が分郷の対象となった。
表5 元禄11年 清名幸谷村分郷内訳
杉 田 知 行 所中 川 知 行 所遠 山 知 行 所合       計
石  石  石  石  
知行高79.775530.5%79.775530.5%102.08539.0%261.636100%
    
本田反  49.099225.5%反  49.099225.5%反  94.086649.0%反  192.636100%
 上田1.5212.355 0.5060.780 1.6132.465 3.710
 中田8.40410.096 6.5107.840 16.31419.616 31.228
 下田45.41631.817351.20035.840 90.82563.61833187.511
 上畑0.5180.504 0.1180.144 0.706
 中畑1.3200.820 1.5270.954 3.1201.900 6.107
 下畑7.5172.267 7.9022.372 12.3053.695 27.724
 屋敷1.2121.240 1.3041.31332.6152.650 5.201
66.11849.099369.01949.0993127.12094.08833262.327192.28693
未新田9.889 44.9%9.889 44.9%2.27110.2%22.049100%
 下田19.7159.875 20.32410.190 4.5052.2583 44.614
 下畑0.0150.015 0.0100.010 0.025
19.8009.890 20.32410.190 4.5152.2683 44.70922.3483 
古新田20.787343.9%20.787343.9%5.72712.2%47.3016 100%
 中田7.6079.148 5.8217.044 1.5251.900 15.023
 下田16.60811.638717.61912.36435.4013.7823 39.628
 下畑0.2000.060 0.200
24.21520.786723.51019.40837.1265.7423 54.92145.9373 
合 計110.203(30.4%)79.776 30.6%112.923(31.2%)78.697630.2%138.901(38.4%)102.0989339.2%362.027(100%)260,57253100%
注) 元禄11年「杉田様御分ケ郷御名前帳」,同年「幸谷田四拾七石古新田名寄帳写」(清名幸谷 鵜沢照夫家文書)より作表。

 まず、計算の上で分郷の対象高二六一石六斗三升六合のうち、杉田氏と中川氏には、それぞれ三〇・五%、また遠山氏には三九%に相当する知行高が与えられた。杉田氏と中川氏の「本田」・「未新田」・「古新田」に占める知行高及びその比率は、順に四九石九升九合二勺(二五・五%)、九石八斗八升九合(四四・九%)、二〇石七斗八升七合三勺(四三・九%)となり、当然ながら両氏に対しては全く同じ知行高が計上されている。遠山氏は、その両氏の残余分、つまり順に九四石八升六合六勺(四九%)、二石二斗七升一合(一〇・二%)、五石七斗二升七合(一二・二%)を知行することになる。これらの数値からも明らかなように、各旗本の知行高の比率と、「本田」・「未新田」・「古新田」に占める各々の比率とは、必ずしも対応していない。たとえば、杉田・中川両氏は、全分郷高二六一石余のうち、三〇・五%に当たる七九石余を占めているにもかかわらず、「本田」部分では二五・五%を占めるだけである。反対に、遠山氏は、分郷高比率三九%に対して「本田」の比率は四九%と高く、その分「未新田」・「古新田」の比率が低くなる。田畑の等級についても、各旗本に帰属する反別は、知行高比率と完全には照応しない。それでも、各等級ごとの支配反別には大きなバラつきはなく、一人の領主に上田や中田など等級の高い地積が集中しないようできる限り均等に分郷されている。そのことは、表中の合計のところで、各旗本の知行高と反別との比率が極めて近似値であることからも確認される。農民個々の保有地の面積や等級は当然ながら一様でなく、用水、地質など耕地の自然条件も異なり、その上、家格や本家・分家の関係なども強固に残っているため分郷はそうした一切の条件を考慮して行わなければならなかった。元禄十一年の清名幸谷村の分郷は、そうした諸条件を考慮しながら農民の高分け、地目の配分がなされた分郷であったといえよう。このような耕作上の実質面を重視する分郷では、高の過不足、等級の偏重を調整するために、どうしても複数の給にまたがって支配される持添越石(こしこく)の農民が出てくる。清名幸谷村の場合では、「本田」・「未新田」だけで、農民数三九人中三人が複数の旗本知行所のところに名前があらわれている。そこにも、寛永十年の木崎村の分郷との差異が指摘できる。