人々の生活の場であり、生産の場でもある村落は、そこに居住する人々の性格によりいくつかの形態に分けられる。古代には班田(はんでん)百姓村が成立しており、中世においても草分(くさわ)け百姓あるいは隠田(おんでん)百姓の村、関東でよくみられる根小屋(ねごや)百姓の村、根小屋百姓と似たさらに古い門前百姓村、名田(みょうでん)百姓の村など、さまざまな性格をもった村が形成されていた。また、近世になって出現するのは、新しく開発された、つまり新田百姓村だけである。
このように、中世末期から近世初頭にかけてすでに多くの村が形成されていたが、その村のどの一つをとっても、生成の仕方は決して一様ではなかった。それでは、中世にほぼでき上っていた多くの村は、近世に入ってどのような変容を遂げて近世的な村となっていったのであろうか。近世初頭の村は、その規模の面から、集落に当たる「小名(こな)村」と、その集落が集まってつくられる「村」と、さらには「村」がいくつか集合してできた「郷村(ごうそん)」とに大別される(『東松山市の歴史』中巻)。大網白里地域において一集落が近世になって村に移行した「小名村」の例としては、仏島村や経田村を代表とする小村が挙げられるであろう。また、大村の大網村、それに小中・平沢・門谷・宮崎で編成する一つのまとまりのある地域は、中世の複数の集落が結合して成立した「村」であったと考えられる。さらに、金谷村を中心とする長谷・小沼・真行・名の各村は、近世文書のなかにもしばしば「金谷郷」と記されているように、中世の「郷村」が近世的な村の形態をとったものと思われる。
近世封建領主は、近世以前に存在していたこれらさまざまな「村」に、検地の過程で村の境界を確定する、いわゆる「村切(むらぎ)り」を行うことによって、村を行政上の一単位とする近世村落へと変えていった。しかし、「集落」や「村」には、その「村」特有の生産条件があることに加え、いまだ中世以来の錯綜した支配関係が残っていて、それらを無視して検地を強行し、農民支配の徹底化を目指すことは困難であった。ことに、関東のような未開の地においては、在地に土豪的な旧臣層が勢力を持ち続けており、そのため検地時の対立とともに、検地後の領主―農民あるいは農民―農民の関係も複雑でかつ多様な形となってあらわれた。
ところで、一般に近世村落には、谷(やつ)の間に開けた谷田(やつだ)に隣接する集落をはじめ、台地上の集落、その台地の突端から麓にかけて開ける集落、さらに自然堤防上の集落など、いくつかの集落があった。とくに集落を形成するには、耕地の安定と用水の確保が重要な条件となり、谷田に接する集落や台地上の集落は、灌漑用水が容易で水利条件に恵まれたため、早くから開発された。一方、台地の突端から麓にかけて開かれた集落や自然堤防を利用する集落は、時として川の氾濫によって耕地が破壊され、安定的な耕地を維持することがむずかしく、その集落に人々が集住できるようにするには、なによりも高度な土木技術と大量の労働力を投下して用水施設の改良を行う必要があった。それが可能となるのは、多大な労働力が動員でき、地域を超えた土木工事を行うことができる近世に入ってのことであった。
大網白里町域は、地形的にみて広大な関東平野の最東部の一部を構成し、その大部分が平野部で、山間部は西側のごく一部にしか存在しない。したがって戦国末期から近世初頭にかけて、在地の土豪的な旧臣層の多くは、自然の傾斜を利用して用水が引け、また溜池を造ることができる谷田付近、ないしは台地上の集落に居住して、田畑の耕作に従事した。もっとも、平野部に居を構える土豪層が全くいなかった訳ではない。戦国武将土気酒井氏の重臣といわれる富田氏は、周囲一帯が平野である富田村に住んでいたが、それが可能であったのも、大規模な溜池などの設置によって耕作に不可欠な用水を安定的に確保できたからであると思われる。このことは、水利条件が満されることによって、平野部にも集落が発達していくことを物語っている。