戦国末期、在地の土豪層やそのもとに包摂された多くの人々は、谷田近辺に集落を形成し、そこを生活の場として暮らしていた。町域では、谷田に接する集落として、門谷村・長谷村・真行村・旧長嶺村(大網村内)などが、その典型的な地域として挙げられよう。その付近一帯では、現在でも「谷」がついた小字が数多く見うけられ、谷田に近接した集落が古くからあったことを想起させる。事実、金谷郷には土気酒井氏の遺臣若菜豊前の住居跡地があり、長嶺には同じく板倉氏の住居跡が確認される。板倉氏は、戦国期には、土気城の支城大網城主として外敵の防御に当たり、長嶺には砦を築いて常備兵の兵舎を設けたといわれている(「土気城双廃記」)。同氏は、土気城主三代酒井玄治(つねはる)の二男治浦が母方の苗字を名乗って板倉と改め、板倉氏の家を興すとともに、それ以来自らも板倉大蔵亮治浦と称して家政に当たったと伝えられる。二代が「馬上の達人」として鎗術の武勇の誉高い板倉長門守治長で、天保十三年「土気長嶺家伝調書集」(板倉俊夫家文書)には、小田原落城後、長門守は三浦監物の仲介により家康に召し出された土気酒井氏五代の子重治・直治の番頭役としてしばらく仕えたが、のち中村日向守子久左衛門正忠を養子に迎えて家督を譲り、慶長六年に実子亀千代が生まれると、子息を残して奥州へ向けて旅立ったとある。そして、板倉家では、久左衛門正忠とその実子久作がともに寛永六年に病死したため、長門守の実子亀千代改め久平治(久平)が遺跡を継いだ。それまでの間、久平は、元和二年に直治から出された久平宛の元服状にその宛名が酒井久平と酒井姓になっていることから判断して、酒井氏の家臣となって直治に仕えていたものと思われる。翌元和三年に直治が刃傷沙汰で落命したのちは、一時牢浪の身となり、寛永六年に義兄父子が病死したため、板倉家に戻り、寛永十年に正式に土着したと考えられる。直治死後、直治の遺跡を襲封しようと画策したのか、あるいは板倉家の家督を継ごうとしたのかは明確でないが、とにかく、「長門守末子(久平)家督願不行届」(「酒井小太郎殿之記録」(写)小川公延家文書)となり、寛永十年に幕府に願い出て「寛永十年御公儀様迄御目安上候て、久平土民ニ相成」り土着した様子が窺える。
このような典型的な中世武士の系譜をひく板倉家が住んでいた場所は、図4で示すように、背後に峰を背負い、自然の勾配を利用して用水が引けるような地形のところであった。同図は、板倉家後裔三左衛門の天保期に作図された地形図である。板倉家を最奥部(図中の板倉大蔵介地所)として展開する集落の前方に道塚北ノ谷と大網宿に通じる道路が南北に伸び、また宮谷道が集落を貫ぬくように西方へ向って丘陵を切り通している。同家の住居地は海抜約四〇メートルで、前方の南北に走る道路を越えて広がる田畑地の高度は海抜約一〇メートルと急激に低くなる。それからはゆるやかに高度を下げながら東部へ向って平野部が海岸まで続く。背後の峰を越えた左側には、現在でも前島池という用水池があって豊富な水を湛えている。図にはないが、恐らくそのような溜池から流れ出る水を図中にある「ナカレ」(用水路)に引いて耕作に使用していたものと想像される。以上のような立地条件からも、板倉家が住居を構える地域が、近世以前から存続した谷田に接して形成された集落であることは疑いない。同図は、後年のもので、すでに近世初期に分立百姓が多数生まれて、彼らが村の中核の構成員となることにより、田畑・屋敷地など集落の地形もかなり変化したと考えられるが、それらを差し引いてもなおこの図は、近世初頭の谷田を中心に形成された集落の様相を呈示していて興味深い。板倉家の屋敷周辺地が、水利の点で非常に好条件の位置にあったことは、同図の用水路の状況をみても一目瞭然である。このほか、土気酒井氏遺臣若菜氏の住居地も、板倉氏同様谷田に接した位置にあり、周囲には高海谷、越谷など谷田を連想させる小字名がいまでも残っている。
図4 板倉氏屋敷周辺図
(「酒井小太郎殿之記録」(写)<柿餅 小川公延家文書>と
「土気長嶺家伝調書集」<東金市 板倉俊夫家文書>を照合のうえ作成)
東金市 板倉俊夫家文書>柿餅 小川公延家文書>