土気・東金両酒井氏滅亡後、主君を失った在地の遺臣=旧臣たちは、牢浪して仕官のときをまつか、あるいは土着して旧来の本貫地へ帰農するかのいずれかの選択に迫られた。戦国期、彼らは、平時においては農・漁業に専念し、戦時には、一族郎党を引き連れて戦場に赴くことを軍役としていた。『東金記録』には、「酒井(東金酒井氏)五代之間、幕下之御士軍役勤ムル者ハ七百騎、地戦ニハ千騎余之ヨシ、今時ノ風トハ違ヒ、軍役ノ暇ニハ自身に耕シ、夫々ニ農業致シタルヨシ、馬ハ野馬ヲ連来ル事故、騎馬多キ由也」とあり、さらに武具についても、「軍器ノ事モ今ノ様トハ違ヒ、甲胄抔ハ首尾シテ持チタル者ハナク、甲モ面々持チタルニモ有間敷、胄は尚更取持ハ無キコトニテ、大方竹具足ヲ用フ」と記されていて、農耕と戦闘の両様にいつも対処できるような彼らの生活振りを伝えている。そして、一旦戦争が始まると、「城中にて鐘を撞き、太鼓・貝を吹く時は耕地より直ちに上り、先づ帳面に付き、一番鐘を撞く時は兵粮を運び、二番太鼓を打つ時鐙・甲を着し、その外よろづ支度を整へ、三番貝を吹く時、御家中その外名家の百姓まで残らず城内へ相詰むべき由」(「土気古城再興伝来記」)といった状態で戦闘に突入するのである。
戦国大名の武力基盤を支えたのは、このような平時は農耕に従事し、一度戦端が開かれると具足を整え、馬上の人となって主君のもとに一族郎党とともに駆けつける武士であり、経済的側面からみれば、二、三町歩前後の田畑を手作りし、そのもとに家来百姓である被官・下人などを従えていた名主(みょうしゅ)層であった。東金酒井氏の場合、いざ合戦というときには、犂・鍬などの農具を打ち捨て、武具を携えて東金城へ馳せ参じる「郷士」(在地領主)は、千人余もの多きにのぼるといわれ(「東金記録」)、衆ごとに家臣の名前が明記された二史料(「東金城諸士」「諸士役人名前」)を照合すると、町域では、今泉・四天木・清名幸谷の三か村が、当時東金酒井氏の領地に含まれていたことが分かる。また、小西村や養安寺村には、小西城主原氏にゆかりの深い在地土豪層が多数在住していたと思われ、千葉氏・原氏の菩提寺である本土寺(松戸市)の『過去帳』には、小西関係の地名を付した者が三〇〇人余も記帳されている。
在地に群居する多くの土豪層は、家康入国後、三浦監物が当地を支配したり、他の地頭が所領したとき、どのような変化を余儀なくされたのであろうか。板倉氏については、すでに述べた通りである。長国村の地侍層であった鵜沢雅楽之助(うたのすけ)・兵庫・義平という三人の兄弟の場合をみると、この三兄弟は、同村で「郷士」として一五〇石を領知していたが、地頭村上右衛門が元和元年(一六一五)の大坂の陣で戦功をあげ、それまで鵜沢氏三兄弟の領知であった長国村一五〇石と、小沼田村五〇石で二〇〇石を宛行われたため、「鵜沢氏兄弟三人ハ、長国村此度村上家の領地となるよしを聞、武門の累葉として今更民間に下らん事無念の至りなりとて、妻子等を家老中村次郎左衛門に預ケ、汝ハ当所に留りいかにもして是等を扶助せよと申遺し、系図・古記等を懐中して、三人打つれ房州辺へと心ざし立退かれけり」と安房の方へ隠退した。これは、新地頭が当地に配置された時点で、在地の土豪層が牢浪・仕官の途を選んだ例である。この古記は、宝暦二年(一七五二)に不受不施派の僧日進が記述した「中古由来伝記」(長国 吉野優家文書)のなかに書き残されたもので、後年の由来記であるため、史料の利用には一定の制約はあるが、旧臣層が牢浪して再仕官の途を選択した事例として非常に面白い。なお、引用文中の村上氏とは、その後近世を通じて長国村を一給支配した旗本村上氏のことである。また安房へ発向した雅楽之助の実子は、同村に土着・百姓化して苗字も鵜沢から吉野と改称し、代々村役人を勤めた。家康の関東入国から慶長期までこのような在地の土豪層が依然と勢力を保持し続けたという事実は、兵農分離政策を打ち出して国人層の解体ないしは武士身分への引き上げを意図した徳川初期政権も、その当初においては、その目標とする政策が必ずしも貫徹しえなかったことを暗示している。それは、在地における土豪層の勢力の度合や征服時の力関係などを無視して諸政策を実行することが困難であったからである。