(4) 土着帰農

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 主家の滅亡とともに従来の本領地を没収された旧臣層は、土着帰農の過程で多くの困難に直面した。三浦監物が大網村を所領したとき、板倉氏の旧本領地が、三浦氏の家臣である「給人層」によってどのように取り扱われ、また三浦氏が絶家となったあと、それらの耕地はいかなる手順で旧に復したのか、その間の事情を伝えてくれる史料が現存するので、次に掲げてみよう。
 
      乍恐御目安を以申上候事
 一上総国山野辺之庄大網郷三浦監物殿御知行、唯今は一色忠次郎殿御代官所ニて御座候、大網之内長峯村我等親代々之山・屋鋪・田地御座候ニ付、山・屋鋪之儀は、御代官忠次郎殿より如前々之御返被下候、田地廻分ニ御座候得共、皆々百性割ニ仕候て作申候事 我等田地之内、監物殿御内衆手作被成候分は、唯今は無主明前之田地ニて御座候間、如前々之我等ニ御返被下候得と、忠次郎殿御詫言申上候得は、尤百性共相談申、請取候御意ニて候処、名主四人御座候、三人之名主・惣百性は無相違候処、壱人之名主五郎右衛門・定使三郎左衛門と申者返シ申間鋪申候、御代官忠次郎殿此上之儀は内々ニて相済不申候間 御公儀迄も申上候と御意御座候事
 一御代官忠次郎殿より我等山・屋鋪如前々之御返シ被下候得共、田畑無御座候て作等不致候得は、何共迷惑ニ奉存候、監物殿御知行之時、御給人衆手作被成候田地之分は、主御座候処は皆々本主江返申、我等田地計今ニ帰り不申候、両人之者被召出、被仰付可被下候、仍て如件
                             上総国大網之郷
   寛永十年                      久平
    酉四月三日
    御奉行所様
 
 これは、前出の「土気長嶺家伝調書集」のなかに収録された一文である。板倉久平は、右の訴状のなかで、板倉家の旧本領地はその大部分が三浦監物の「御給人」によって手作りされたことを述べ、三浦氏が家名断絶(寛永八年)となったため「御給人衆」も引き上げ、その田地は「無主明前之田地」となったので「本主」に返すよう訴えている。山林と屋敷は返されたものの、農民にとって最も肝心な田畑がまだ戻されていないので、「作等不致候得は何共迷惑」であると、早期の返還を願い出ているのである。はじめ代官一色氏に訴えたが、「百性共相談申」し、その上で請け取るようにとの沙汰があったが、相給名主四人のうち三人と「惣百性」は納得したものの、あと一人の名主と定使が「返シ申間鋪」と反対したため、やむをえず幕府に訴え出た。恐らく板倉氏の旧本領地が給人手作りとなっていただけでなく、返却を拒否する名主や定使へすでに名請けされていたのであろう。
 ところで、上級領主である主君を失った旧臣が土着帰農するには、第一に以前所領していた本領地に土着する形態、第二に土地の買得による形態、第三に未開地の開墾による形態があり、そのほかにも初期検地実施と同時に土着した旧臣の子女と婚姻関係に入ることにより、一定の分地をうけて百姓化する形態もあった。しかし、そのいずれの形態においてもすでに天正・文禄検地が施行されたあとでは、彼らの土着・百姓化には多大な困難が伴った。とくに、第一の本領地への土着の形態は、ほとんど不可能に近かった。なぜなら、検地を実施したにもかかわらず、いまだ村切りが確定せず、しかも出入作が整理不十分な状態であったとしても、検地により耕作事実に基づく年貢(生産物地代)負担者が決定し、「作り合い」否定の原則が貫徹している以上、旧臣が旧来の主従関係で支配しようとしても不可能だったからである。たとえ先祖伝来の本領地であっても、検地帳に他の名請人が登録され、その農民に土地の占有権が認められている限り、旧臣がそれを取り上げることは許されない状態にあった。
 先の板倉氏の土着帰農の形態は、まさに第一の形態の代表的なものといえ、一度名請人が決定すると、旧来の本領地であることを主張しても取り返すことが困難であったことをよく示している。この一件は、寛永十年の四月十九日に、評定所から訴訟人久平および相手名主と定使の三人に対し、吟味のための召喚状が出され、争いの舞台が評定所へと移された。その結末については、必ずしも詳らかではない。ただ、「長門守末子久平先祖山・屋鋪之義御目安上候て、代々相続仕候」(前出 小川公延家文書)となり、山林と屋敷地については取り戻しが認められたが、田畑についてはそこに断っていないことから、実現しなかった模様である。
 以上のように、大網白里地域でも、長国村でみられる新地頭を配しての旧臣層の追放、解体、あるいは大網村の場合にみられる旧臣層の本領地の没収と新地頭家臣の給地化、小百姓の名請地化など、旧臣が土着するには多くの困難があった。それでも、彼らがそれらの困難をくぐり抜けて土着・百姓化につとめたのも、牢浪して再仕官を目指すことが決して容易ではなかったからである。そして、土着帰農に成功した旧臣の多くは、村の長(おさ)として、あるいは初期村落の肝煎や問屋として村内の重要な位置についた。このことは、当地域における近世村落の成立を考える上で大きな意味を含んでいる。なぜなら、原理的には兵農分離により、在地小領主としての性格を否定された旧臣層=家父長的名主(かふちょうてきみょうしゅ)が初期村落において村役人化することによって、それに付随するさまざまな特権を後盾てとする小領主的な支配を続けていくことになるからである。