(1) 検地

335 ~ 336 / 1367ページ
 天正十年から慶長三年にかけて施行された太閤検地が、全国統一を目指す秀吉の最も基本的な政策の一つであったことは、すでに述べた通りである。近世社会は、土地生産力を基盤として成立していた社会であり、支配権力にとっては、その土地と農民をどのように支配、掌握するかが重要な課題であった。太閤検地は、この土地と農民を支配する基本的な土地政策であった。それが既述した目標の画期性だけでなく、全国的な規模で、しかも統一基準(石高制)のもとで強行されたという点でも画期的なものであった。日本史上でも最も重要な土地政策の一つとされる太閤検地とは、一体どのような内容をもち、またいかなる基準や方法で行われたのか簡単に説明を加えておこう。
 検地は、領主に派遣された検地役人が中心となって、まずその実施過程で村境を確定(=村切り)し、その村を単位として測量を開始する。その測量には、間縄や間竿が使われ、一筆ごとに田・畑・屋敷地が実測される。字名、地目(田・畑・屋敷地など)、面積、等級(上・中・下・下々など)、石盛(反当り標準収穫高)、石高=分米(ぶんまい)(生産高)が決定すると、一地一作の原則により耕作事実に基づいて耕作者=年貢負担者を決め、それを名請人として検地に登録する。太閤検地をはじめ近世初頭の検地では、間竿の長さも領主や検地役人によってまちまちで、六尺三寸、六尺二寸、六尺一分などの間竿が使用された。しかし、幕藩体制が一応確立する慶安二年(一六四九)二月に六〇か条の「検地条令」(『条令拾遺』)が公布されると、六尺一分に統一された。また貢租賦課の基準となる石盛は、上田を例にとると、最初に数か所の坪苅りを行い、坪当たりの平均収穫量を算出し、仮にそれが坪(=歩)当たり籾一升であったならば、一反=三〇〇歩制では、一反当たりの収穫量は三石と算定される。この三石の籾を五合摺りにすると一石五斗の玄米となり、この上田の石盛は一五と表示される。つまり一五というのは、その村の上田においては、玄米一石五斗が生産されることを意味し、以下中田・下田・下々田と一級ごとにふつう二つ下りで石盛がつけられる。畑の場合も一般的にはその生産高が米で換算され、上畑の石盛が一二ならば、大体二つ下りで中畑・下畑・下々畑の石盛がつけられた。もっとも、どの村でも上田の生産高が一石五斗ということではなく、用水や地質の良、不良など生産力に大きな影響を及ぼす生産条件の違いによって、その石盛に格差があった。後年になるにつれて、この石盛と現実の収穫量との間に乖離が生じ、石盛が必ずしも坪当たりの平均収穫量を表現しなくなる場合もある。
 いずれにしても、このような実施基準や方法による検地によって、中世荘園下の生産条件を基本に形成されていた集落の集合体である郷や庄を支配・政策的な面から創られていく近世的な村に変え、一枚の耕作地に名主職(みょうしゅしき)・作職(さくしき)・下作職(げさくしき)など重層的な土地への権利が存在していたのを解消し、それまで在地で勢力を保っていた土豪層(中間層)を排除して、領主が直接農民を掌握するという支配関係が創出されていったのである。しかしながら、太閤検地も全国一斉に実施されたわけではなく、出羽国のように、中世の貢租納入体系である貫文制が近世に入っても採用されたところや、旧制の大半小制(反より小さい地積をあらわす場合、大=二四〇歩、半=一八〇歩、小=一二〇歩で表示する)が、依然と使われて畝歩制への切り替えが遅れた地域もあった。それは、村落の社会的関係や征服地の土豪層との力関係などに規定されて、その地域の実情に合った検地を実施しなければならなかったからである。