(2) 徳川天正検地

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 秀吉から関東を与えられた家康は、江戸入城を果たすとすぐに新領国に家臣団を配置する一方で、農民支配のために検地を行った。徳川氏の天正検地の方針については、次の短い文言のなかで端的に示されている。
 
 この頃関東中の知行取、私に竿をあて、員数を言上すべきの由也、翌春検使をたて、或は四割、或は五割、六割をかけて高の内に封ず、たとえ十万石の高にて、十五万、十六万石になる也、小給の知行は家康公より竿を当てられるの間別事なし

(『当代記』天正十八年の条)


 
 そこでは、関東の知行取り(上級家臣)は、はじめ自分で検地を行い、翌天正十九年春に徳川氏が検使を派遣して、各々の検地結果より四割から五割、六割を増高して、所領高を決めるというのである。また、小知行取り(中・下級家臣)については、徳川氏が直接竿当て(検地)を行うとしている。これは、徳川氏の関東入国当初における検地の基本方針であったと指摘されている(北島正元前掲書)。新領国の検地は、この方針によって部分的であれ、天正十八、十九年にまたがって強行された。大網白里町域の村々でも、数か村において徳川天正検地が行われ、現在、後年の写しも含めて、仏島村、経田村(写)、清名幸谷村の三か村の検地帳が残存する。そこで、以下これらの天正検地帳を利用して、当地で実施された検地の意義や内容について、少し検討を加えていこう。