(4) 分付主と分付百姓

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 右のことを分付主―分付百姓という関係からもう少し検討してみよう。表7の名請人三九人のほか、実際には分付百姓としてのみあらわれる百姓が五五人も存在し、同村の検地帳に登録される百姓数は八六人の多きを数える。一四町七反余の小規模な耕地面積に対し、八六人もの百姓が耕地の保有権や耕作の権利など何らかの形で関係しているのであり、これを単純計算すると一人当たり耕地面積は五畝一二歩となり一反にも満たない狭さである。この数値では、全村民がこの狭い耕地を頼りに生計を維持していくことは到底不可能であったと思われる。
 表8で示したように、同村の百姓は、耕地の所持において多様な形で存在していた。同表に表示された三九人の名請人のなかでも主作地のみの者七人、分付地のみの者九人、主作地と分付地を合わせもつ者一五人、主作地と作地を所持する者三人、分付地と作地を所持する者五人というようにさまざまな農民の存在形態がある。もちろん、このほかにも作地のみを耕作する分付百姓が四七人存在し、また検地帳にも全くあらわれないような関係、たとえば複合家族や譜代下人などの隷属農民も存在していた。
表8 名請人の経営面積
NO.主作地作 地分付地分付百姓経営面積
反  反  反  
18.12811.0211019.219
24.8264.80739.703
39.22899.228
40.4018.015138.416
57.4087.408
64.9061.81916.725
76.52456.524
83.2003.31446.514
95.5255.525
100.4275.02845.525
113.2151.72215.007
120.6194.31435.003
132.9221.70414.626
144.51744.517
154.4164.416
163.72733.727
173.7173.717
183.4241.1294,623
192.92832.928
200.4162.50832.924
212.61242.612
224.7202.11516.905
230.4291.40921.908
240.2261.51521.811
250.8060.92711.803
261.6141.614
271.5241.524
281.51011.510
290.1271.12111.318
300.1240.91411.108
310.8247.3128.206
320.6000.12110.721
330.3200.62811.018
340.2140.22010.504
350.41710.417
360.4121.7295.811
370.31310.313
380.1180.118
395.4180.10715.525
注) 史料は表6と同じ。

 この内訳から分かるように、名請人のなかでは、主作地と分付地を合わせもつ百姓が一五人と多く、なかでも最大の経営規模をもつ①五郎左衛門は、八反一畝余の主作地のほか、主作地を上回る一町一反余の分付地を保有し、分付百姓も一〇人を数える。そのほか一町歩弱の名請地を所持する有力農民は、大体において分付百姓を数人抱えている。当時の農業技術で一~二町歩の農業経営を維持しようとするならば、複合家族や隷属農民の労働力の導入を不可欠とするため、その経営において分付百姓に一定の労働提供をさせたことも十分考えられる。しかし、逆に主作地を所持しながら分付百姓となっている農民が、⑱・㉛・㊱と三人存在し、あるいは分付主として一三人もの分付百姓をもつ④次郎右衛門尉が、自らが作地を耕作するなど、分付主であるにもかかわらず、自分自身分付百姓となっている者が五人もいることを考え合わせると、分付主―分付百姓という関係が必ずしも強い従属性をもっていたとは想定しにくい。
 そのことは、経田村の場合も同様で、三二人の名請人中、第二位の名請地一町五反余を所持する勘解由は、自ら分付百姓となっている(表9)。その勘解由を含めて分付主でありながら、分付百姓となっているのが三人存在し、彼らはいずれも相当の所持反別をもつ百姓であった。また、分付百姓一七人のうち、九人が名請人としてあらわれ、しかも所持反別が一反未満の者は一人もいない。これらのことは、分付百姓の自立度の高さを証明する一つの指針となるとともに、分付主―分付百姓関係が強固な従属関係で結ばれているものではないということを示唆する。分付関係は、分付主と分付百姓の間で中世以来のある種の従属関係を内包していると思われるが、「分―作」関係は、土地の分与というよりはむしろ土地の貸与、つまり手作りに対する小作を意味しているのであろう(『栃木県史』通史編四 近世一)。
表9 天正19年 経田村の分付状況
分付百姓単独名請地分付地分付主
反  反  
惣五郎3.124太郎左衛門
 〃0.729源左衛門
二郎左衛門10.0092.325太郎左衛門
 〃0.815源六
甚右衛門3.3041.413勘解由
 〃0.805川さき
正次1.710与三左衛門
七郎左衛門1.4291.116太郎左衛門
六郎左衛門5.8211.025藤右衛門
二郎三郎1.025川さき
新五郎2.2231.005川さき
源四郎1.005源左衛門
藤右衛門6.3011.003新左衛門
源右衛門2.0090.927太郎左衛門
小四郎0.910川さき
新兵衛0.717藤右衛門
甚兵衛1.9230.618新右衛門
左衛六0.612太郎左衛門
勘解由15.2250.225六郎左衛門
甚四郎0.224六郎左衛門
注)  天正19年7月「上総国土気之郡経田村田畑御縄打水帳」(経田 今井良男家文書)より作成。