近世村落を構成する人々は、すべてが百姓として平等な身分ではなかった。検地帳に登録される者とそうでない者、あるいは秣場(まぐさば)や用水を使用できる者とできない者など、村内にはさまざまな身分上の区別があった。とくに近世初頭、中世以来の主家との隷属関係を絶ち切れないまま近世までもち込んだ隷属農民が多数存在していた。彼らは地域により「譜代」、「家来(からい)」、「屋敷者」、「抱」、「門屋」、「前地(まえじ)」、「前家」などと称された。一概に隷属農民といっても、その隷属度や隷属の性格によってかなりの幅があった。ふつう、家族をもたず、耕宅地や農具も一切所有せず、主家に完全に支配される者を隷属農民という。しかし、ほかにも、隷属はしていても、家族を構成し、主家から分与された土地や屋敷をもち、その耕地を自分の農具で耕す者、つまり小規模ながらも一個の経営体をなしていた隷属農民もいた。これら隷属層を抱えていたのは、多くは中世武士の系譜をひき、近世に入って土着・百姓化に成功した土豪層であった。彼ら「名田(みょうでん)地主」は、一人の家父長を中心に大家族を構成し、傍系家族あるいは非血縁の譜代下人などを多数抱え、彼らの賦役労働を使って自己の「名(みょう)田畑」の自作経営を営む一方で、残りの部分を小百姓に小作させていた。
彼らはまた、土着するとすぐに村の草分け百姓として、初期村落の肝煎になるのが一般的であった。草分け百姓は、年貢徴収請負人として、村内の年貢の取り立てにも関わった。小農自立の未成熟な地域では、統一政権が封建的土地所有体系の確立を目指そうとするには、一定程度の身分的隷属関係を容認せざるをえないと同時に、旧臣層の村落内での支配力を利用して、年貢収納を確実なものとする必要があった。そのため彼ら草分けである旧臣層=「名田地主」を村の肝煎に登用し、年貢徴収人として年貢取り立てに関する権限を付与しなければならなかった。