大網白里地域における近世前期の農業構造は、譜代下人などの隷属農民を抱え、その賦役労働に依拠して自作経営を営む一握りの「名田地主」と、そのもとに包摂される隷属農民の多さということによって特徴づけられる。ところが、このような「名田地主」を中心に展開してきた農業形態ないしは村落構造も、十七世紀中ごろから十七世紀末にかけて、譜代下人などそれまで主家に支配されていた隷属農民が自立して小農民となっていくことにより次第に変化していった。
この小農民というのは、領主から認められた保有地を自家労働と自己所有の農具とで耕作する生産農民をいい、その家族形態は、従来の「名田地主」が構成するような複合大家族ではなく、直系親族を主体とする単婚小家族であった。このころ、大量の苅敷肥料を投入して行う有機肥料農業が展開し始めたことにより、水田の裏作や畑作における二毛作・三毛作が盛んに行われだし、限られた耕地を最大限に活用する小農の経営には、この多毛作による連作農業は、最も適合した農業形態であった。畿内地方では、かなり早い時期からこの農業形態が進展して小農経営が行われていたが、生産条件に規定されて経済発展の遅れていた関東地方でも、十七世紀末ごろまでには進行し始めた。とりわけ、元禄期から享保期にかけて、多肥多労働による集約的農業を特徴とする農業形態が拡大し、その形態に適合的な鍬や鎌を使用する小農経営が全面的に展開すると、それまでの「名田地主」を中心とする初期村落に代わり、小農が村落構成の主体的な存在となる近世村落が形成されてくるようになる。