(7) 惣百姓の形成

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 戦国末期から近世初頭にかけて、それまで「名田地主」のもとに包摂されていた多くの隷属層は、農業生産力の上昇に伴う農業形態の変化によって自立の途を歩んでいった。主家からの自立化の方向は、ふつう非血縁の譜代下人などの隷属農民の解放、傍系家族の分立の形となってあらわれる。この自立の時期は、各地域の生産諸条件や社会的事情によって異なるが、寛永期ごろにはかなりの隷属農民の解放があったものと想像される。しかし、一応百姓と認められて自立はしても、すぐに主家の拘束から完全に脱却することが困難な場合もあった。それは、自立のための経済的基盤が十分成熟していなかったことに起因するが、それでも極めてゆるやかな速度ながら確実に小百姓は成長していった。
 他方、家父長的地主(「名田地主」)と血縁関係にある同族団もまた、新田開発の進展や農業構造の変化などを契機として、本家から分裂して分地百姓となっていった。この同族団というのは、本家と血縁関係がある傍系家族の者をいい、彼らは旧来から非血縁の譜代下人が御館(おやかた)百姓のもとに包摂されていたのと同じように、本家の家父長権を通してその支配下に置かれていた。当時の低い生産力段階では、彼らが本家を離れて生活を維持できるような共同体的関係は形成されておらず、したがって、自分たちの経営を守っていくには、本家との同族団的結合に大きく依存するよりほかなかったのである。それでも、寛永期から元禄期にかけて、先に指摘したような小農民が自立できる条件が整ってくると、譜代下人が主家との関係を絶ち切って自立していったように、これら傍系家族もまた本家のもとから分立して分家百姓となっていった。
 町域でも主家のもとに包摂されていた人々や同族団が分立した事例は二、三指摘しうる。経田村の今井家の「寛永寄 日記写扣帳」には、「村内先祖草分田畑高」三五石余を「分地仕候」として、寛永二年(一六二六)に分地した佐右衛門以下五人の分地百姓と分地高が列記されている。また「先祖は今井三郎右衛門と申、兄弟弐人ニて田地分、惣領今井三郎兵衛、弟ハ今井長次郎と申」すとあって、先祖の草分け百姓三郎右衛門が子二人に分地していることが記されている。前の五人への分地は、兄三郎兵衛の所持地を、さらにその五人へ分地したものであることが、検地帳の記載内容から読み取れる。その記載例を示すと、
  三十弐間 拾壱間四尺 中田壱反弐セ拾三歩 大黒田 三郎兵衛分 此内弐拾四歩 庄左衛門作 佐右衛門へ分地
となり、天正十九年の検地帳のなかに、後年の検地結果の名請人が書き加えられている。下段の庄左衛門は、天正十九年段階の名請人名で、庄左衛門が三郎兵衛家の家筋の者か、あるいは三郎兵衛家がある時点で庄左衛門家からその土地を購入したものかは不明であるが、寛永二年に今井家から分地した五人のうち、佐右衛門が三郎兵衛の中田一反二畝一三歩のうち二四歩を分地されていることが分かる。ほかにも、
壱畝拾歩 下ノ前四郎右衛門
  拾壱間下ノ前弐拾六歩 家賃作源左衛門
中畑五畝九歩壱セ十歩 同所次郎兵衛 庄左衛門作
  十二間壱セ八歩 下め同人
弐十六歩 同所同人

とあるように、田畑一枚が細分化され、そこに分地が行われたことを想起させるような記載が随所にみうけられる。
 後出する南飯塚村の神社祭式の内容を記した文書(富塚治郎家文書)中にも、松重郎家および幸三郎家から「分家」した者がそれぞれ六人ずつ、重助家から「分地」した者が二人いた事実が伝えられている。こうしたさまざまな形態をとりながら、主家に包摂されていた人々は、解放ないしは分立していった。
 いずれにしても、このような譜代下人などの隷属農民や、傍系の分地百姓のような小農民が、次第に村落構成員の主体となっていくと、いままでの「名田地主」を中心的な構成員とした初期村落は、惣百姓を中核とする横のつながりのある近世的な村落へと変容していく。