徳川氏は、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の役に勝利を収めると、全国統一へ向けてさまざまな政策を打ち出していく。その一つに農民法令があった。徳川氏の蔵入地(くらいれち)や地頭(じとう)支配の農村に公布された法令のなかに、『百姓殺害の事これを停止すべし』(慶長七年十二月六日「郷村掟」)、『百姓をむざと殺候事御停止たり』(同八年三月二十七日「諸国郷村掟」)という文言がある。徳川氏から新領国へ派遣された代官や地頭のなかには、新領国の経営に当たり、支配領民に対して不当な年貢賦課や武力行使など勝手気儘な行動をとるものもいた。後年宝暦期に、長国村出身の不受不施派僧日進が、近世初頭の地頭の非道ぶりを責めて、「御地頭は替り給ふ事もあらん、百姓におゐてハ田地あらん限りの主なり」(吉野優家文書)と農民の立場を擁護する思いを述べていることは、逆にそのころ農民に対する地頭の「恣意(しい)」が非常に強かったことを物語っている。徳川氏が統一集権的政治体制を早期に確立するには、従来のような武力による農民支配を改め、農民の「保護」の立場に立った法令の制定によって農民を統治していく必要があった。
農民統制法としては、慶安二年(一六四九)に発令された「慶安触書」がよく知られている。改めて説明するまでもないが、この法令は三二か条からなり、代官・地頭をはじめ、名主や組頭に対する農民の心構えを細かく規定し、そのほか衣食住についての取り決め、農業技術上の指導など農民の生活のすみずみにまでわたって農民の守るべき条項を並べている。そして、最後の項目では、「天下泰平の御世」になったのであるから、「百姓どもは年貢さえ完納すれば、これほど安楽なものはない」と結んでいる。このように、「慶安触書」にしても、先の二法令にしても、年貢を完納する限りにおいて農民を「保護」し育成するのであり、また農民に過重な年貢を賦課して経営を破綻させない範囲での「保護」であった。この「触書」は、全体的に教訓めいた内容であり、現代の法観念では到底理解できない条項ばかりでつづられている。しかし、このような内容をもつ農民法令が、当時の農民の生活にある部面で合致していたこともまた否定できない。この法令は、農民統制の基本的な法令として、その後も長く効力をもった。