(3) 村役人

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 村請制の究極的な目的は、村々の年貢・諸役の完納であり、その徴収の責任を負ったのが、名主をはじめとする村役人たちであった。村役人は、年貢収納を含め、村内の行政的な役務全般を担わされた。初期においては、前節でみたように、中世武士の系譜をひく在地の土豪層が土着帰農すると同時に、村役人的地位に就くことが多かった。町域のように小農民自立が遅れた地域では、封建領主は、彼らの村落内での勢力と農民統制力を利用して、年貢収納を確実なものとしなければならず、そのため、旧臣層を村役人に登用せざるをえなかった。
 この地域では、村の長(おさ)は名主(なぬし)(他地域では庄屋ともいう)といわれ、年貢をはじめ領主からの触書類はすべて名主のもとへ届けられ、村民は名主からその内容を示達された。そこで、名主の任務がどのような内容であったのか、経田村・仏島村を知行した旗本酒井氏の「名主勤方之覚帳」(仏島区有文書)から窺ってみることにしよう。これは、寛政七年(一七九五)七月に、酒井氏の家臣前波藤兵衛以下三人の連名で、各知行村々の名主に宛てて下付されたものである。それには、最初に記されている各村名主給と川荒引(かわあれびき)の年貢控除俵数の書き上げを除き、八五か条もの名主役務規定が列記されている。
 領主への年礼、年貢上納ならびに検見に関する準備と心構え、村内の取り締り、新田開発についての手続き、領主払米(はらいまい)とその売却方法、領主および村内外の非常時における対応など、その勤役の内容は多岐にわたる。八五か条の条項をすべて紹介することは、紙幅の関係から不可能なので、とくに重要と思われる項目について、数か条読み下し文で掲げておく。
 
 一壱ケ年之惣御勘定、毎月三月限りたるべし、若し四月へ入り罷り出で候得ば、御屋鋪に差し置かれず、町宿たるべく候、右之節、差し出し候諸帳面諸書付左之通り
    人別帳 宗門改め帳 五人組改帳
 一羽織之義、名主は格別、其外組頭たり共相成らざる事、但し、若し、着致し候もの有候はば、制し申すべく候、名主勤め候共、退役後は相成らざる事
 一毎年田方植附け相済み次第、幸便を以て訴え申すべき事
 一御家中之面々より金銀米銭は申すに及ばず、如何様之品にても借し付け、或は預け申し度段申す者これ有り候はば、右同様に相心得申すべく候事
 一田畑水押・日照・風雨等之訴え仕り候共、御見分願い申さず候得ば、御取り上げこれ無き事
 一若し、村方にて御払米仰せ付けられ候節は、入札壱枚にても余慶取り、開封致さず、封印之まま入札御屋鋪へ差し出し申すべく候、且つ、弥御払米に相成り候はば、石代金に売り上げ之印形一札相添え、上納致すべく候事
 一御類焼これ有り候はば、御軍役之通り百性壱人に付き、木にても竹にても壱本宛、縄一尋宛先格之通り差し出し申すべく候、幷びに御類焼これ有り候はば、早速先格之通り歩之者鍬持たせ差し出し申すべく候、人数之義毎々出し候通り心得申すべく候事
 一上田・下田之差別これ有り候得共、検見之節、上田・下田之差別なく、其年之出来方之上と中と下之所へわくを入れ、平均候て御収納附け候事に候、是を色取といふ、又は見取共いふ、此儀は古来より上田・中田とこれ有り候ても、年数相立ち候得ば、上田も変じて下田に成る、是ヲ変地といふ、且つ又、年之出来、不出来にて上田・下田に相違これ有り候に付き、右之ごとく色取に致すべき旨享保年中 公儀より仰せ出だされ、右之ごとく相成り候間、其の段相心得、百性共へ申し聞かせ置くべき事
 
 ここに掲出した八か条さえ、全体の約一割に過ぎず、名主は村内の行政に精通していなければ勤まらないことがよく分かる。
 名主は、ふつう村に一人置かれるのが原則であったが、町域の村々のように相給(あいきゅう)村落が主体的な地域では、一給ごとに名主が任命された。もっとも、小給の旗本知行地、ないしは持添(もちぞえ)で開発された新田では、本村の名主が兼帯することもあった(表10参照)。小給の知行地の場合、近在に数か村分散して同じ旗本の知行地があるときは、総代(割元)名主が任命されて、点在する数か村の知行地を統括することもあった。近世初期においては、名主は世襲が一般的であり、年代が下るにしたがって、村民の選挙(入札)で選出する村も出てきた。萱野村では、文政十年(一八二七)に、名主を選定するに当たって「村内一同寄合、評義之上入札」して決めるよう申し合わせている(横田栄彦家文書)。
表10 慶応2年 村々の給別名主
村 名領     主名 主
①砂田紂小川達太郎代官所
阿部新太郎知行所
②萱町村服部一郎右衛門知行所
川井万作知行所
栄助
 
③神房村松平内蔵之助知行所
肥田潤之助知行所
④小中村小川達太郎代官所
大久保主膳正知行所
佐兵衛
庄作
⑤平沢村原田市三郎知行所
千本弥八郎知行所
口右衛門
善兵衛
⑥門谷村小川達太郎代官所
石原太郎右衛門知行所
縫右衛門
三左衛門
⑦宮崎村逸見元一郎知行所与左衛門
⑧永田村小川達太郎代官所
小川達太郎代官所
大導寺権六郎知行所
伴五兵衛知行所
小栗又左衛門知行所
河内平八郎知行所
神谷左内知行所
阿部新太郎知行所
清之丞
長右衛門
新之丞
太郎左衛門
長右衛門
三郎左衛門
市左衛門
平兵衛
⑨駒込村岡部龍之助知行所
河野伊予守知行所
内藤弥左衛門知行所
神谷左内知行所
惣七
官蔵
三郎左衛門
弥左衛門
⑩赤荻村岡部龍之助知行所
河野伊予守知行所
内藤弥左衛門知行所
惣七
甚左衛門
三郎左衛門
⑪経田村酒井作右衛門知行所
真田帯刀知行所
太右衛門
忠兵衛
⑫池田村野村鉄太郎知行所三郎兵衛
⑬南玉村松平内蔵之助知行所重五郎
⑭大竹村曲淵乙八郎知行所次郎兵衛
⑮金谷村遠山左衛門知行所
橘隆庵知行所
山口近江守知行所
重次郎
仲司
忠左衛門
⑯長谷村土屋豊前守知行所平左衛門
⑰小沼村河野隼人知行所太郎左衛門
⑱真行村曲淵乙八郎知行所
大沢甚之助知行所
善兵衛
惣右衛門
⑲名村曲淵乙八郎知行所藤吉
⑳餅木村小川達太郎代官所
土岐源之丞知行所
辰次郎
同人
㉑大網村小川達太郎代官所
大岡主水知行所
内藤弥左衛門知行所
大導寺権六郎知行所
梶川徳太郎知行所
戸塚厚之進知行所
遠山左衛門知行所
石丸源五郎知行所
荻野柳次郎知行所
曲淵乙八郎知行所
米津伊勢守領分
又右衛門
庄左衛門
新左衛門
藤吉
平兵衛
新兵衛
芳太郎
晋右衛門
林助
藤吉
平右衛門
㉒仏島村酒井作右衛門知行所六左衛門
㉓荻福田村米津伊勢守領分市左衛門
㉔小西村大岡主水知行所太兵衛
㉕養安作村小川達太郎代官所
大岡主水知行所
阿部四郎三郎知行所
大久保主膳正知行所
石丸清次郎知行所
五郎右衛門
栄助
長左衛門
僖十郎
兵右衛門
㉖山口村水野荘五郎知行所
清水与膳知行所
赤井庚三郎知行所
山名鎗次郎知行所
前田孫一郎知行所
清左衛門
百左衛門
又右衛門
六右衛門
惣十郎
㉗南横川村大井靏二郎知行所
水野肥前守領分
武左衛門
安右衛門
㉘富田村榊原小源太知行所
榊原金之丞知行所
榊原小源太知行所
孫右衛門
小重郎
長五郎
㉙星谷村森川肥後守知行所角兵衛
㉚北横川村戸塚厚之進知行所定右衛門
㉛上貝塚村戸塚厚之進知行所太左衛門
㉜清名幸谷村戸塚厚之進知行所
遠山左衛門知行所
杉田弥市郎知行所
中川備前守知行所
四郎右衛門
勘左衛門
瀬兵衛
専蔵
㉝南飯塚村小川達太郎代官所
戸塚厚之進知行所
水野肥前守領分
孫左衛門
次郎左衛門
次郎左衛門
㉞北飯塚村橘隆庵知行所
水町肥前守領分
源左衛門
同人
㉟柿餅村宮城源太郎知行所
根岸肥後守与力給地
水野肥前守領分
嘉平次
文左衛門
半兵衛
㊱上谷新田中川備前守知行所
水野肥前守領分
伝兵衛
源左衛門
㊲木崎村服部一郎右衛門知行所
米倉丹後守与力給地
八郎左衛門
作兵衛
㊳柳橋村平岩金左衛門知行所
倉橋育之助与力給地
五郎左衛門
同人
㊴北吉田村仙石次郎兵衛知行所
阿部四郎三郎知行所
庄作
文左衛門
㊵桂山村小栗又左衛門知行所良平
㊶長国村村上修理知行所市郎兵衛
㊷九十根村小川達大郎代官所
真田帯刀知行所
庄左衛門
同人
㊸下ヶ傍示村筧助兵衛知行所六左衛門
㊹二ノ袋村小川達大郎代官所与惣右衛門
㊺細草村宮城源太郎知行所
石原順之助知行所
大導寺権六郎知行所
水野肥前守領分
倉橋育之助与力給地
米倉丹後守与力給地
織田伊賀守与力給地
四郎左衛門
重蔵
太郎兵衛
嘉右衛門
佐内
良右衛門
六左衛門
㊻四天木村赤井藤太郎知行所
新庄右近知行所
九郎左衛門
為次郎
㊼今泉村水野清六郎知行所源左衛門
㊽清水村川口与八郎知行所
真田帯刀知行所
平左衛門
三郎左衛門
注1)  慶応2年「御捉飼場村々五郷連印帳」(松尾町 渡辺徹家文書)より作成。
注2)  ㉘富田村の榊原小源太知行所の名主が2名いるのは,同村は当時南北に分かれていたためである。また寺社領も兼帯名主なので記載はない。代官所(図3の付表2参照)で名主の記載がないのは,代官所が持添新田分で本村の名主が兼帯したからである。さらに①砂田村,②萱野村,③神房村は,引用史料に記載がない(当時,鷹場五郷組合から除かれていた)ため,在地史料で判明する分のみ掲げた。

 名主を補佐するのが組頭(与頭)である。組頭は名主のように一名ではなく、村や給の大きさにより、一名から数名が置かれた。その就任に際しては、領主の許可を必要としたが、役料は領主から支給されず、村入用のなかで賄われるのが一般的であった。役務は、名主の指示にしたがって、各種の書類を作成したり、年貢の小割を行ったりすることを主たる内容とした。そのため、組頭は、算術や文章作成にたけた者でなければ勤まらなかった。
 このほか、村役人の一員ではないが、百姓の代表格ともいうべき百姓代という者が存在した。百姓代も村の規模により人数は一定しておらず、百姓間の争い、年貢・諸役や村入用の徴収の監査などを主要な職掌とした。
 以上の名主・組頭・百姓代を総称して、ふつう村方(むらかた)三役、ないしは地方(じかた)三役といった。表10に、名主を勤めた家筋を辿る便宜上、幕末期の町域における村々の給別の名主を掲示しておく。