(5) 永田村の郷五人組

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 村内で五人組を構成する場合、近隣の五軒が一組となるのが原則であった。ところが、町域の村々では、支配形態の上で、分散分給形態をとることが多かったため、村内の農民は、たとえ隣家であっても、給分が異なれば別々の領主から支配をうけることになる。各給別の農民は、給ごとに五人組を作るのが一般的であり、当然相給の場合、同じ給の農民は、拡散した家同士で五人組を組織することになり、そのため、日常の生活面で相互監視が行き届かなかったり、農作業で援助ができなかったりするなどの弊害が起こってくる。
 そうした相給形態からもたらされる五人組構成員相互の連帯責任の希薄化、あるいは隣保扶助の低減化といった弊害を解消するため、永田村では、相給を越えた全村レベルでの「郷五人組」が組織された。永田村には、文化五年(一八〇八)から慶応元年(一八六五)にかけて「郷五人組帳」と題する史料が二〇点現存する。また、天保三年(一八三二)から安政五年(一八五八)までの「御鷹場五郷五人組改帳」という標題の史料も六点保存され、そのうち、「郷五人組帳」と年代が重なるものが三点含まれている。そのほか、天保改革時に作成され、その前書部分に特別改革の趣旨が織り込まれた天保十二年(一八四一)「御改革五人組帳」と同十四年「御請書五人組帳」がそれぞれ一点ずつ残存する(いずれも永田区有文書)。同じ年代に作成された「郷五人組帳」と「御鷹場五郷五人組改帳」を比較検討すると、その五人組構成員は全く同じであり、最も注目されることは、相給村落にもかかわらず、永田村全体の村民によって、これらの五人組が組織されているということである(川村優「郷五人組考」『日本歴史』第三五六巻所収)。
 永田村は、近世初期から幕末まで一貫して分割支配が続いた村で、天保九年段階の相給状況は、清水領知(所領高二八一石余・家数二六戸・人数一三七人)、森覚蔵代官所(三六石余・無民家)、旗本大導寺仁太郎知行所(四〇〇石・四〇戸・二〇〇人)、同伴鋠之丞知行所(三〇九石余・三三戸・一六六人)、同小栗熊太郎知行所(二六六石余・二一戸・一三三人)、同河内平八郎知行所(一七七石余・二四戸・一二一人)、同神谷与之助知行所(一〇四石余・一二戸・五〇人)、同阿部新太郎知行所(一三石余・一戸・三人)となり、村高一五八九石余、家数一五七戸、人数八一〇人という大村である(永田区有文書)。幕末・維新期には、清水領知分が代官支配地に組み込まれ、阿部氏が五斗二升余の改増をうけただけで、ほとんど変化なく、七給ないしは八給の代官支配地および同一旗本による世襲知行が続いた。

写真 永田村郷五人組帳(永田区有文書)
 
 永田村には、近世後期に全村で一六〇人前後の家数があり、七~八給の分給支配が行われ、各給には名主以下の村役人が置かれた。そして、そのうちの一人が年番名主に指名され、相給を越えた村内全体の政務に携った。全村民は、各領主の給別には関わりなく、一村の五人組に編成されて、「郷五人組帳」、「御鷹場五郷五人組改帳」にそれぞれ記帳されたのである。その場合、各五人組の構成員は、二つの帳面では全く同一であった。しかし、五人組の構成員は同じであっても、農民が遵守(じゅんしゅ)すべき事柄を箇条書きにした前書部分は、標題から予想されるように当然その内容は違っていた。天保十年の場合、「郷五人組帳」は、一一か条の項目からなり、「御鷹場五郷五人組改帳」は八か条の項目からなっていた。同じ九月に作成された両帳を比較するため、それぞれの前書の要旨を書き上げると以下のようになる。まず前者は、
 一御公儀の条目を遵守すること。
 一御鷹場御用、そのほかの御用向が年番名主から伝えられたならば、遅滞なく勤めること。
 一溜井普請并びに圦樋、橋掛替えの節は、不参なく勤めること。
 一村方は旱損場であるので、北南両限ともに二月二十日に水を溜めること。これを切る者には、過料三貫文を申しつける。
 一苗代は、旱損場であるので、掛け水を大切に行うこと。関水については、年番名主より指示を受けること。
 一村中火の用心を日頃から油断なく申し合わせること。
 一往還通りは道幅二間とし、柳堤・下谷も同様とする。そのほか作場道は七尺、徒道は一間とする。
 一村中田畑に支障のある竹木は、村役人立会いの上、枝葉伐採のこと。
 一村中谷の通路で以前より道幅が狭くなったところは、前々の通り九尺道とすること。
 一杭木入用の節、彦右衛門・佐助・八右衛門・八郎左衛門の杭木山より伐り出すこと。
 一郷中往還がぬかるときは、道普請入用の苅敷・下茅二五抱宛を彦左衛門の山から差し出すこと。
の一一か条からなる。
 他方、後者の場合は、
 一御捉飼場に設定された村人の道・橋を修復し、御捉飼場の道路に支障のないよう念を入れること。
 一稲苅り取り後は、田の水を排水すること。用水・溜池はそのままの状態で差し支えない。そのほか樋浚い、水落しを行うこと。
 一鶴・雁御捉飼の節、その旨の触れがあれば、畑の案山子や縄を取り払うこと。
 一鉄炮打・殺生人は、格別停止のこと。
 一鶴・白鳥のいる場所は、支障のないよう大切にすること。
 一疑わしい者が鷹を連れて参り、捉飼するようなら焼印を照合して改めること。
 一毎年九月より翌三月まで、百姓居屋敷の溝・堀・用水・悪水・堀池等に棲息(せいそく)する魚貝類の浚えは禁止のこと。
 一村々の名主・大小の百姓并びに郷士などに至るまで、御鷹旅宿を遅滞なく提供のこと。
の八か条が列挙されている。
 両帳の右の前書部分に記された条項の決定的な相違点は、前者は、田畑耕作、用水利用、道路・橋の整備補修など、日々の生活・生産に密着した取り決めが主体となっているのに対し、後者は、御鷹場に指定された村々として、鷹狩りが行われるときの鷹場農民の心構え、その対応、準備といったことが中心となっている点である。つまり、前者は、日常的な生活の部面での相互規制、監視を主な内容とし、後者は、すべて鷹狩りに際して鷹場農民が守るべき事項が前書部分で定められているのである。後者の二か条目に稲刈り後の用水の取り扱い方を規定した箇条があるが、これも鷹狩りに関わる条項であることはいうまでもない。
 後述するように、二、三か村を除く当町域の村々は、近世初期から鷹場役に設定されていたことから、鷹狩りに関する五人組組織は、相当早い時期からあったものと考えられる。したがって、前者「郷五人組帳」は、溜池・用水や農道・橋など生産条件の円滑な共同利用を主眼として、相給形態からもたらされる弊害によって農業生産が損われないよう、後者、つまり「御鷹場五郷五人組改帳」で組織されるすでにでき上っていた鷹場役の連帯負担を通して結ばれる近隣の地縁的な結合をそのまま利用し、また準用して編成されたものであったと思われる。
 さてここで、近隣の監察、耕作に関する種々の用益権の共同利用、また、鷹場の設定によって各農民の居住地・耕作地周辺を常に整備しておくといったことは、給別を越えて編成される地縁的な結びつきで処理できたが、否むしろ、その方がより効率的であったが、各領主のもとに帰属される農民が、複雑な計算を伴う年貢・諸役を負担し、その連帯責任を負う場合、給を越えた五人組の組織で果たして対応できたのであろうかという疑問がわく。そこにこれまで明らかにされなかった一村全体とは別に、給ごとの五人組組織が存在したかどうかということが、重要な問題となってくる。表11は、文久二年(一八六二)の「郷五人組帳」と、同四年の旗本小栗知行所分の「御改五人組帳」を利用して、二つの五人組の構成がどのような関連をもっていたかを検討したものである。永田村の給別の五人組帳は、現在知られるところでは、この小栗知行所に関する二、三点だけである。したがって、他給の五人組帳が作成されたかどうかについては不明であるが、小栗知行所と同様他給でも毎年作成されたものと思われる。
表11 永田村五人組構成
永田村全村五人組
(文久2年)
全村・
1給
相関
永田村小栗知行所
五人組(文久4年)
五人組番号人数
NO.15①重郎左衛門
②与惣右衛門
③七右衛門
④清左衛門
⑤喜内
NO.25
NO.35
NO.45
NO.55⑰⑳㉓
NO.65
NO.75⑥惣左衛門
⑦六左衛門
⑧伝四郎
⑨長重郎
NO.85
NO.95
NO.105
NO.115⑭⑯
NO.125⑮⑱⑩八郎右衛門
⑪徳左衛門
⑫隆庵
⑬徳右衛門
NO.135
NO.146
NO.155
NO.165⑩⑪
NO.175⑨⑫⑬⑭作右衛門
⑮与左衛門
⑯与右衛門
⑰久左衛門
⑱市兵衛
NO.185
NO.195⑥⑦
NO.205③④⑤
NO.215①②
NO.225
NO.235⑲伝左衛門
⑳九兵衛
㉑長右衛門
㉒勘兵衛
㉓伝右衛門
NO.245
NO.255
NO.265
NO.276
NO.285
NO.295㉔喜三郎
㉕次郎兵衛
㉖善兵衛
㉗五左衛門
NO.306
NO.316
NO.327㉔㉖㉗
合計 32組166戸6組 27戸
注)  文久2年「郷五人組帳」(永田区有文書),文久4年「御改五人組帳」(石渡裕家文書)より作成。

 表中より明らかなように、文久二年の永田村の家数は一六六戸で、三二組の五人組が結成されている。各組の構成員の内訳は、六人の組が四組、七人の組が一組、あとの二七組が五人で編成されている。一方、文久四年の小栗知行所分は、家数二七戸で、その二七戸は、四人組が三組、五人の組が三組の合計六組に分かれて五人組を作っている。ところが両者を比べると、全体の五人組構成員と、給別のそれとが全く一致するのは皆無で、小栗知行所付の農民が、全村単位の五人組でも同じ五人組に編成されるような方向は認められるものの、最高の人数でもNo.5、No.17、No.20、No.32の三人が限度で、あとはいずれも、他給の者と五人組を組むことになる。その三人の場合でも、たとえば、No.5、No.17のように、No.5は給別の五人組では⑳九兵衛と㉓伝右衛門の二人は同じ組であるが、⑰久左衛門は別の組であり、No.17でも、⑫隆庵と⑬徳右衛門は同組で、⑨長重郎は他組となっており、それぞれ一人だけ給別の五人組でも別の構成員がそこに含まれている。このことは、全村の五人組が隣人の相互監視や用益権の共同利用に基軸をすえて編成されたのに対し、給別の五人組は、年貢納入の連帯責任など本来の五人組の性格に基づいて組織されたことを明示する。