(1) 年貢

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 近世封建領主の経済的基盤は、基本的には、支配農民から収取する年貢・諸役からなっていた。検地の実施過程で村切りが行われると、その村を単位として貢租が賦課され、農民は、村請制によって連帯でそれを領主へ上納することを義務づけられた。村単位といっても、相給村落の場合は、その給ごとに貢租を納入したことは言及するまでもない。
 一般に、田や畑の耕地の生産物に課せられる貢租を本途物成(ほんとものなり)といった。これが近世における基本年貢で、本途という呼称もそこからつけられた。そのほか、山野河海の用益や地方の特産物に賦課される小物成という年貢があった。次節で触れる入会山で農業に必要な苅敷(かりしき)肥料の緑肥を採集したり、領主の御林山から秣(まぐさ)や立木を伐り取ったり、さらに九十九里浜で水揚げされた漁獲物に課せられたりする年貢が、これに当たる。これらの年貢量は、近世初期の検地によって確定された各名請人の所持高を基準とし、田畑・屋敷地に分米(ぶんまい)=石高が付されて、すべて石高換算され、納入高が決定するとされる。しかし、町域に残る三か村の天正十九年(一五九一)検地帳でも、経田村と仏島村の二か村の検地帳には、分米(生産高)の記載はなく、清名幸谷村の検地帳だけ分米表記があるなど、必ずしも統一的な検地の記載内容とはなっていない。経田村と仏島村の初期検地帳には、一筆ごとの分米表記がないだけでなく、各地目の合計も、全村の村高集計もない。しかしながら、近世初期から村高は決定されており、それを基準にして年貢は賦課されていたのも事実である。この石高・石盛(こくもり)のない検地帳が作成されたのは、中世の貫文(かんもん)制以来、年貢が一律に決定していて、面積の把握だけに力点が置かれたことに起因するのかも知れないが、今後検討を要する課題である。