金谷村三給のうち、一六九石五斗九升七合七勺を知行する旗本橘氏の場合、文政五年(一八二二)では、田方年貢八八俵(一俵=四斗)から、名主給米や餅米代、堰扶持(せきふち)米、御用捨米ほか控除分二四俵三斗六升九合二才を差し引いて、六五俵三升九勺八才(原史料の計算違いは、調整が煩雑なのでそのままとした)が、現物納で「蔵入」れされている(表14)。そのほか別に畑方年貢を二両三分金納し、この年には、田方年貢は現物納され、先納金も計上されていない。ところが、弘化四年(一八四七)では、定免の八八俵の田方年貢量は変わらないが、控除分合計一四俵一斗八升を差し引いた残り七三俵二斗二升は、米一石が一両九斗四升換算により「此代金」三一両一分と銭三一一文で石代算定された。しかも、先納金がすでに二六両一分と銀六匁五分九厘が計上されており、田方年貢からの納入額はわずか四両三分二朱と銭四一〇文ということになってしまった。なお、このほかに畑方年貢の金納分が二両三分上納されていることは、文政五年と同じである。弘化四年以降も同知行所の先納金は増大し、田方年貢の納入も現物納ではなく、金納化が主体となっていくことは、他の史料で確認できる。このように年代が下るにつれて、畑方年貢はいうに及ばず、田方年貢も貨幣納する傾向が強まり、それと比例するように先納金の金高も次第に嵩(かさ)んできて、その厖大な利足支払いのため領主財政はより一層逼迫するようになる。慶応四年(一八六八)の同知行所の田畑面積比率は、およそ田五八%、畑四二%である。水田の方が広いということは、石代納や先納金を行うことによってそれだけ農民の手元に貢租米が残る可能性が大ということになる。
文政5年 | 弘化4年 | |
知行高 | 169石5977 | 169石5977 |
田方年貢 | 88俵 | 88俵 |
うち引分 | ||
餅米代引 | 4俵 | 2俵 |
大豆代米引 | 1俵200 | 1俵 |
畑成引 | 280 | 280 |
名主給米 | 2俵 | 2俵 |
御用捨米 | 12俵 | |
御普請利足 | 5俵38083 | |
運賃米引 | 1俵369 | |
堰扶持米 | 33919 | 1俵 |
初米納 | 4俵 | |
上地半納 | 3俵300 | |
計 | 24俵36902 | 14俵180 |
差 引 | 65俵03098 | 73俵220 |
蔵入 | 石代金 31両1分ト銭311文 | |
先納金 | 26両1分ト銀6匁59 | |
差 引 | 4両3分2朱ト銭410文 | |
畑方年貢 | 2両3分 | 2両3分 |
こうした傾向は、金谷村だけでなく、他村でも多くの村でみられる現象である。たとえば、桂山村(旗本小栗知行所一給)の場合では、田方年貢高二二三俵二斗四升(一俵=四斗)のうち、名主給米、堰扶持米などの引き分を差し引いた残り二一四俵二斗四升が、石代相場一両につき一石三斗七升で六二両二分二朱と銭二一三文に換算され、石代納されている。ほかに本畑・新畑などの金納分が八両一分と銭七二〇文八分あり、そのなかから奉公人給金一両と銀四匁四分五厘を控除すると、最終的な総年貢額は六九両三分二朱と銭四三五文になる。しかし、この年の年貢に対する先納金が元利ともで八一両余もあり、同年の年貢納入額では充当できず、逆に約一三両が焦げつきとなって翌年の先納金として繰り越されることになった。これだけにとどまらず、以前から返済できない「古先納金」が元利で四五四両余もあり、新たな繰り越し分とが合算されて四六六両余を次年度以降の年貢のなかから返済していかなければならないのである。
当然、このような状況は、領主にとって収納米の不足といった事態を惹き起こし、幕末期、大網村のある旗本知行所の場合、畑方年貢についても米納を強要したが、結局は、次の「下知」状に示される通り、その米納を撤回して元の金納=永納に戻してしまった(長谷川和雄家文書)。
下知
知行所畑方米納ニては、大小之百姓一同難渋之趣年々及歎願候ニ付、出格之以 思召、来丑年より古例之任振合、永納申付候者也前書之通被 仰付候間、大小之百姓共へ可申渡者也
地頭所内
嘉永五子年十月 石川要人[印]
八木吉太夫[印]
こうして領主に上納するため名主の土蔵に納められた年貢米は、当地域からは、陸路で寒川や登戸(のぶと)、浜野村(いずれも千葉市)へ輸送され、そこから江戸へ向けて船で運ばれた。それらの積出港には廻米を宰領(さいりょう)する専門の「運送宿」があり、廻船業と連繫して、あるいは彼らが廻船業者をも兼ねて各村々からの領主米の廻送に当たった。