これが、年貢を納入するときの大ざっぱな手順であるが、領主の財政基盤が所領地から収納する年貢である以上、もし所定の年貢が上納されないときは、強烈な制裁が加えられた。寛永十五年(一六三八)の木崎村の年貢割付状(富塚勝男家文書)に、「米八拾七表は、極月廿日以前ニ可致皆済候、若々於令油断は人質ヲ召上、永代返し申間敷候」と命じられているように、領主は年貢の収取に大変厳しい態度で臨んだ。さらに、同十四年の南飯塚村の割付状(富塚治郎家文書)では、もし年貢が未進(みしん)になるようなら、「鑓責を以可申付者也」と強硬な姿勢で年貢上納を申しつけている。後年になると、このような激しい調子の文言は割付状に織り込まれることはないが、領主側からすれば、年貢が確実に収納できるか否かは、領主の存亡に大きく関係するだけに、近世初期においては支配農民に対し武力(経済外強制)を行使してでも、年貢を納めさせようとしたのである。
写真 寛永15年 寅之免定之事(木崎 富塚勝男家文書)
なお、当地域は、九十九里浜に面しているため、漁業に関する年貢を幕府に納入したが、その漁業年貢については、六節で触れることにする。