徳川家康は、鷹を野に放って狩猟する鷹狩りをことのほか愛好した。ふつう、将軍が鷹狩りする場所は、「御留野(おとめの)」、「御拳場(おこぶしば)」などといわれ、大名の場合は、「御鷹場」、「御鷹野」、「御上場」などと呼ばれた。
慶長十八年(一六一三)、将軍職を秀忠に譲った家康は、相模国中原(平塚市)で新鷹を入手したので、翌正月に上総国東金近辺で鷹狩りを行うことを命じた(『台徳院殿実紀』)。早速、当時の佐倉城主土井大炊頭(おおいのかみ)利勝は、「大御所東金御成り」の準備に取りかかった。その準備として、(1)東金御殿の普請、(2)御成街道の普請、(3)鈴木杢之助を三河国高橋庄三五〇貫文の地から、上総国東金に移封して所領を与える、(4)高橋衆七〇騎を東金の近村へ転住させる、などの手筈を整えた。家康による東金鷹場の設置と遊猟は、鷹狩りに名を借りただけのものであって、実質的には九十九里地方の土豪層の旧勢力を抑える軍事的な意図があったとし、高橋衆を鷹場のなかの村に住まわせたのも、その一環であるとする見解も出されている(川名登「九十九里農村の史的構造」)。
東金御殿や御成(おなり)街道の普請は、慶長十八年十二月十二日より、翌年正月八日までのわずか二十八日間の突貫工事で行われた。御成街道が別称「一夜街道」といわれるのも、そのような理由からである。家康は、完成した翌日の正月九日にはすでに鷹狩りに来遊し、同十六日まで東金御殿に逗留した。さらに、元和元年(一六一五)十一月にも七日間逗留して遊猟したが、東金周辺での家康の鷹狩りはこの二度だけで、その後は東金に来遊しなかった(『東金市史』史料篇巻一)。二代秀忠は、元和四年を初発に寛永七年(一六三〇)まで七度の鷹狩りを実施した。ところが、三代家光に至っては、寛永十三年に東金鷹場遊猟の用意のため、東金御殿を修復させたにもかかわらず、「御成り一度も遊ばされず候」とあるように、寛永十九年初めて名代を立てて形だけの鷹狩りを実施してのち、毎年名代による鷹狩りは行われたが、家光自身は一度も狩猟のため東金を訪れたことはなかった。名代による鷹狩りは、以後天和元年まで継続するが、それより先、寛文十一年には、東金御殿も取り払われ、のち鷹場制度自体も一時中絶された。そして鷹場制度は、享保二年(一七一七)に復活され、翌三年に鷹匠(たかじょう)戸田五助組御捉飼が東金に来遊してから、再び名代による鷹狩りが行われるようになった。この鷹場制度の一時的な廃止が、五代将軍綱吉の時代に発布された「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」(貞享四年)と関係があることは、容易に想像がつく。なお、東金御殿が撤去されたとき、建造物の居間は焼却されたが、その一部は小西村正法寺に移築され、現在でも同寺の本堂として保存されている。
鷹場の周辺地域に設定されたのが御捉飼場であった。これは、鷹の実地訓練や鳥類の調達のために設けられた鷹場で、鷹匠頭の支配に置かれた(本間清利『御鷹場』)。周知のように、将軍が鷹狩りを行う際には、鷹匠以下鳥見(とりみ)衆、同心(どうしん)、野廻(のまわり)役など多くの随員が従い、寛永七年の鷹狩りのときは、「御成供衆(おなりぐしゅう)」の数だけでも五六〇人にのぼったという。その後、将軍自らの遊猟はなかったが、名代による鷹狩りは続行され、それらの鷹狩りに必要な水夫、勢子、人足の労働力はもとより、旅宿の諸費用や狩猟の諸入用は、御捉飼場に設定された村々が負担した。御捉飼場の村々は、こうした労働力や諸入費の拠出だけでなく、鷹狩りのときに豊富な獲物が狩猟できるよう禁猟区域に指定された。また、冬季に渡来する鴨や鶴の餌を供給するため、池や川の小魚貝類を獲ることが禁じられた。そのほか、田の水の排水に心掛け、鳥を威す案山子(かかし)の設置や鉄炮の使用を制限するなど、鷹狩りに支障を期たす活動は、それがたとえ農事に深く関わっていようとも厳禁されていた。そのことは、先の永田村の「御鷹場五郷五人組改帳」の前書部分が示す通りである。