以上のように、御捉飼場に設定された村々には、鷹狩りに伴う人足や諸入費の負担と、日常的に豊富な狩猟が実現できるよう準備しておくことが課せられた。この役割を担った村々では、一村単位では負担しきれないのと連帯で責任を負うため近村数か村がまとまって五郷組合を結成した。先に引用した寛文八年(一六六八)の「上総下総御鷹場五合(郷)組合之帳」が現存していることから、すでに寛文期には、上総・下総両国では鷹場の五郷組合が存在していたことが知られる。また、一時中断していた鷹場制度が、享保二年に再開されて以来、鷹匠が御捉飼場に来訪するようになると、従来の五郷組合よりさらに広範囲の地域が組み合って、霞(かすみ)組合を組織した。以後、この霞組合で鷹匠一行の旅宿を用意し、食事の世話から、水夫、人足など労働力の提供、江戸の将軍に届ける鷹の生飼上鳥(あげどり)の継ぎ送り人足の差し出しまで、さまざまな夫役を負担するようになった。
山辺郡内で編成された霞組合は、東金町組合二七か村、大網村組合一八か村、粟生・片貝・粟生野三か村組合四六か村の三霞組合である。町域の村々は、この三つの霞組合にそれぞれ編入された。ただ、砂田村・萱野村・神房村の三か村だけは、東金から遠距離に位置するためか、霞組合を構成する村から除外された。
鷹場に関する御捉飼場の村々への課役は、初め面割で賦課され、安永四年(一七七五)を境に高割になった模様である。明和九年(一七七二)九月、東金村組合二七か村のうち、上谷新田・清名幸谷村など一二か村から、東金町をはじめ一五か村を相手取って訴えた出入は、
唯今迄村高大小之無差別、村面割を以不順ニ相勤、勿論小高村ハ弐、三ケ村最合相勤候ヘ共、私共拾弐ケ村は、六百石以下ニて百石ニ不及村方も有之、相手方村々ハ、八百石位より及千六、七百石ニ、格別之甲乙
があるので、小高の村々は、面割では過重となることから、
自今御鷹御用勤方之儀、組合弐拾七ケ村惣高割ニ致、村順を以相勤度由
と主張して、奉行所安藤弾正少弼へ訴状を提出したものである(鵜沢照夫家文書)。その結果、安永四年二月に、松平右近将監の下知により、安藤正弼が裁許を行い、訴訟側の全面的な勝訴となり、以後、鷹狩役は、高割で課せられることになった。