(8) 鹿狩(ししが)り

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 家康は、鷹狩りとともに、慶長十七年(一六一二)二月三日、遠江国堺川二上川で鉄炮・弓もちの勢子五、六〇〇〇人、唐犬六、七〇疋を使って、大規模な鹿狩りを実施したのをはじめ、数多くの鹿狩りを行っている。以後、歴代将軍もこれに倣い、江戸周辺の原野で大掛かりな鹿狩りを挙行した。
 下総国小金原から六方野に至る大原野では、将軍主催による鹿狩りが四回実施された。八代将軍吉宗が享保十年(一七二五)、同十一年の二回、十代将軍家斉が寛政七年(一七九五)に一回、十二代将軍家慶が嘉永二年(一八四九)に一回の合計四回である。
 そのうち、寛政七年に行われた鹿狩りの様子を伝える触書(桂山 島田良吉家文書)を紹介すると次のようになる。
 来ル三月五日、下総国小金中野牧ニおひて、御鹿狩御成御沙汰ニ付、先達て相触候趣を以、来ル三月二日迄、東ノ方ハ佐倉城下鹿嶋川縁り迄、南は六方野縁り迄、北ノ方ハ利根川縁迄追詰、踏留居、役人差図を可相待候
 こうして、各地域から一日に三、四里ほど追い立て、鹿狩り当日より三日前までは、獲物の鹿を大多喜辺からは、六方野辺まで、銚子付近よりは、佐倉城下鹿島川辺まで、結城辺からは利根川まで、それぞれ追い詰め、目印の「さいみ」を立てている場所まで来ると一旦止まり、態勢が整ったところで合図とともに一気に追い出す段取りとなっていた。ここに、小金原を中心とする広い地域にわたって、大規模な鹿狩りの大絵巻が繰り広げられることになる。このような大掛かりな鹿狩りを差配した役人のなかに、御鷹匠、御鳥見、御鷹匠同心、小普請(こぶしん)役をはじめ、牧場の管理を行う牧士(もくし)が含まれていることから、鹿狩りの際には、鷹場や馬牧に関与する役人の連絡があったものと考えられる。
 鹿狩りに駆り出される勢子(せこ)人足や、その狩猟に必要な諸入費は、村高に応じて周辺村々で賄った。町域の村々から動員された勢子人数は、表15の通りで、萱野村・門谷村・細草村、ならびに新田村である荻福田村・星谷村を除くすべての村々に勢子人足が割り当てられた。萱野村以下五か村に勢子人足の課役がないのは、割り当てそのものがなかったのではなく、ほかの諸入費を負担したため除外されたものと思われる。いずれにしても、原史料の集計数字を借りると、山辺郡総村数一一〇か村から徴発された勢子人足は三八一三人となり、そのうち町域の村々から約四〇%に相当する一四四八人が出ている。この寛政七年の鹿狩りでは、総勢七番手までで武蔵・上総・下総・常陸四か国一五郡から七万二六五七人の人足が駆り出されたという。もっとも、村々では勢子人足を実際に差し出すこともあったが、「勢子人足壱人ニ付、一日之賃料鐚(びた)五百文宛ニテ一日之分渡し切ニ定ル、定日三日壱貫五百文也」と人足を雇傭して、その賃銭を支払うことが多かった。

写真 鹿狩り勢子人足幟
(四天木 内山裕治家所蔵)
 
表15 寛政7年 鹿狩り人足数
村 名 人数 村 名 人数
砂田村 16 養安寺村 46
萱野村 山口村 127
神房村 27 南横川村 56
小中村 16 富田村 41
平沢村 16 星谷村
門谷村 北横川村 4
宮崎村 32 上貝塚村 4
永田村 124 清名幸谷村 36
駒込村 71 南飯塚村 6
赤荻村 15 北飯塚村 6
経田村 16 柿餅村 4
池田村 31 上谷新田 4
南玉村 40 木崎村 14
大竹村 35 柳橋村 10
金谷村 40 北吉田村 22
長谷村 32 桂山村 22
小沼村 14 長国村 12
真行村 32 九十根村 27
名 村 15 下ケ傍示村 13
餅木村 18 二ノ袋村 15
大網村 238 細草村
仏島村 13 四天木村 48
荻福田村 今泉村 58
小西村 32 清水村 22
合 計 1448
注)  寛政7年「小金野御鹿狩御触書写幷山辺郡村々卒士人足之控」(清名幸谷 大原 豊家文書)より作成。