(9) 街道と助郷

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 村びとにとって、屋敷と耕地を結び、また屋敷と屋敷、村と村、町場と農村を結ぶ道は、日常の生活を送っていく上で必要不可欠なものであった。領主にとっても、参勤交代(さんきんこうたい)や新領地へ赴任するときに通る道はなくてはならないものであった。町域の街道は、年貢米の陸送はもちろん、九十九里浜からの漁獲物の輸送に大いに利用され、その商品を取り扱う商人たちの往来でとくに賑った。なかでも大網村は、東上総における交通要衝の地であり、古くから市や町として栄え、宿場の機能も兼ね備えていた。現存史料から復元した図5から、町域の村々を縦横に走る往還(おうかん)の様子が窺えよう。

図5 近世後期の町域村々の街道略図
 
 さて、幕府は、公用人馬の輸送の円滑化を図る目的で、全国の街道を整備するとともに、各街道筋に宿駅を設置した。それは、律令制の駅制を始源とする戦国期の伝馬(てんま)制に倣って設けられた。五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)や脇往還(水戸街道・東金御成道など)をはじめ、全国の街道が整備され、道中奉行の管轄下に置かれた。とくに宿駅は、寛永十二年(一六三五)の参勤交代制の確立を契機に一段と整備され、その宿駅では継立(つぎたて)人馬が常置され、各宿駅で人馬が不足するときは、周辺村から助人馬を徴発し、公用荷物の輸送にあたらせた。この交通制度を助郷(すけごう)制という。助郷には、定・増・加・当分助郷など各種の助郷があり、定助郷で人馬供出の負担能力を超える場合、そのほかの助郷が順に設定される仕組みとなっていた。助郷村に組み込まれると、その助郷勤高は村高を基準に決定され、年代が下るにつれて、公用人馬の継立が増大すると、勤高も急速に過分なものとなっていった。
 町域の村々は、先にみたように二、三の村を除くほとんどの村が、東金鷹場の御捉飼場の村に設定され、鷹狩りに関する種々の課役を負担した。助郷役については、交通の激しい主要な街道から遠距離であったため、近世中期までは、助郷に指定される村はなかった。ところが、享保期になると、九十九里浜と江戸を結ぶ街道の往来が頻繁となるにつれ、金谷村・長谷村・真行村・名村・小沼村・餅木村・小西村・池田村・南玉村・大竹村の町域一〇か村と、大椎村・山田村・上大和田村・下大和田村の合計一五か村が、土気町の定助郷に設定された。また、年代は不明ながらも、大網町に近い柿餅村や木崎村が、大網町の定助郷に定められている。
 こうして、鷹狩りの夫役負担に加え、年代を経過するにしたがって次第に助郷役が加役される村々が出現し、なかには、定助郷である村が、そのまま他の宿場の当分助郷に命じられる事態もみられた。この助郷役負担の増大は、当然各地で助郷役をめぐる争いを生起させた。金谷村や名村など町域一〇か村を含む村々は、慶応元年(一八六五)、日光道中の草加宿と武蔵国赤山村以下二八か村との助郷出入に関連して、直接その出入に巻き込まれることになった。ことの発端は、草加宿から赤山村など一〇か村に当分助郷が命じられたのを赤山村などが拒否したため、その代替として金谷村・名村以下一一か村に当分助郷が廻ってきたことにある。この助郷出入に関係した村は、名村・真行村・小食土村・小中村・平沢村・門谷村・宮崎村・金谷村・小沼村・長谷村・小西村の一一か村で、そのうち小食土村を除く一〇か村は、すべて町域の村である。早速、村々は、以前から土気町の定助郷を勤めており、しかも鷹場村として鷹狩役を負担し、その上、野馬(のま)役までも勤めているなど、夫役が「二重、三重」にも課せられて村々が疲弊していることを理由に草加宿の当分助郷の取り消しを願い出ている。幕府は、鷹場役、馬牧役、あるいは他宿駅の助郷役を勤めていて、一時的な当分助郷役負担さえ到底不可能な村々に対しても、新たな助郷役を課していこうとするのである。宿駅制度は、明治五年(一八七二)八月末をもって全廃されるが、幕末段階ですでに江戸幕府の交通制度は完全に破綻していたといえよう。