村びとは、領主へ上納する年貢や諸役のほか村の運営に必要な経費=村入用を負担しなければならなかった。明和五年(一七六八)の北吉田村(旗本仙石知行所分)の「村諸入用帳」(佐久間忠夫家文書)の内容をみると、項目別に大きく三つに分類できる。第一は、堰扶持米、定夫給、合力(ごうりき)米、紙・筆・墨代など村行政の運営費であり、第二に、定使(じょうづかい)年貢、年貢勘定役人扶持米、江戸地頭屋敷までの路用、年貢勘定中の宿入用、夫銭など年貢・諸役の負担に関する費用が挙げられ、最後に、鷹狩賄入用である鷹匠扶持米、水夫銭、諸道具代、薪諸入用、野廻衆接待の諸費用、鷹狩餌差(えさし)入用など幕府に対して負う入用がある。他村の村入用帳には、このほかにも、第一に分類されるものに助郷免除訴願諸入費、用水普請費用、山番、村方諸帳面作成の費用などがあり、同様第二の分類には、年貢米輸送の諸経費、検見のときの入費、領主への年頭出仕の挨拶費、領主奉公人の給金などがあり、第三には、国役金や伝馬役金などが含まれる。こうしてみると、村入用は、単に村の運営費だけでなく、第三の入費のように、幕府から賦課された役の負担がかなりの部分を占めていることが分かる。これは、幕府が全国の統治者として農民に課した役負担を表現しており、また、第二の夫銭や領主屋敷への水夫は、日常的には領主の家政的なものであっても、領主が大坂に勤番となったり、将軍の日光社参に随行する領主に従ったりした場合は、軍役(ぐんやく)動員という性格をおびるようになる(『東松山市の歴史』中巻)。役負担が、一般に本百姓(ほんびゃくしょう)といわれる人たちに課せられたのに対し、村入用は、そうした百姓的身分を超えて、村落を構成する水呑(みずのみ)百姓など零細層も含め割り当てられるのが常であった。年貢は、時代を経るにしたがって定免制の採用により固定化の方向へ向ったが、村入用は、額も項目も次第に増大していった。