ともかく、一筆のみならず、二筆、三筆の屋敷地をもつこれら有力農民は、家父長的な大家族を構成し、本家を中心に一族の住居を屋敷内に配置して、検地帳に名前すら出てこない譜代層および傍系家族や、名前は連ねても、一定の従属関係にある分付百姓としてのみ登録されるような小百姓をその屋敷内に住まわせていたのである。
ところが、前節でみたように、寛永期ごろから農業生産が急速に発展し、農業形態に変化があらわれてくると、そうした複合大家族で構成される家族形態は、譜代下人層の自立、傍系家族の分立―単婚小家族の創成という事態に直面して、大きな変化を余儀なくされた。旧来のように、彼らの賦役労働に頼って自作経営を営むことは困難となり、なかには没落する「名田地主」もいれば、労働力の質を転換させることに成功して、その後も大規模な自作経営を続けるものもいた。自作経営を縮小しないで、以後もその経営を継続する場合、当然、いままでの賦役労働に代わる労働力を捜し出さなければならない。ところで、主家・本家に包摂されていた譜代下人や傍系家族は、自立したとはいうものの、彼らの経営は極めて脆弱で、一旦大きな災害や凶作に見舞われると、すぐさま経営の破綻に陥った。急場を凌ぐため、家族の一員を放出して奉公人に出さざるをえず、労働不足により自作経営を維持することが困難となっていた旧「名田地主」層や新たに台頭した有力農民たちは、彼ら奉公人を雇い入れて、その後も大規模な自作経営を営むことができた。
こうして、村内の有力農民は、多くの下男・下女を雇傭して経営の維持、拡大に努めたが、下男・下女は、年季契約による奉公人であって、いままでのような主家に包摂されるような従属農民ではない。さらに、弟姉妹が結婚まで家に同居することはあっても、それは従属的な労働力として抱えられているのではない。宝暦・明和期に、有力農民が大きな農業経営を行うため、多数の下男・下女を抱えていたことが表16から窺える。この時期、清名幸谷村のうち、杉田知行所に属する九人の農民の平均家族数は、同表で示すように一三人前後で、とくに下男・下女の多さがその平均を上げている。両年とも九戸の農家中、五戸が下男・下女を置き、なかでも長右衛門は、宝暦六年(一七五六)に二七人、明和二年(一七六五)に二一人を抱えている。この下男・下女の性格と、彼らを使って営まれる農業経営の実態は、史料的な制約から明らかではない。下男・下女にしても、なかには、子持ちのものも含まれており、彼らを単なる雇傭関係に基づく奉公人と断定してしまうことには躊躇(ちゅうちょ)を禁じえない。とにかく、多数の下男・下女を置くこれらの家族形態からすれば、当時、相当大きな農業経営を営んでいたことは当然予測される。
宝 暦 6 年 | 明 和 2 年 | |||||||||||
親族 | 下男 | 下女 | 子供 | 計 | 親族 | 下男 | 下女 | 子供 | 計 | 明和7年 所持高 | ||
人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 石 | ||
長右衛門 | 5 | 11(2) | 12 | 4 | 32 | 長右衛門 | 7 | 12 | 9 | 28 | 19.574 | |
与右衛門 | 6 | 6(2) | 5 | 4 | 21 | 与右衛門 | 6 | 5(3) | 7 | 5 | 23 | 8.534 |
幸七郎 | 3 | 3 | 6 | 12 | 幸七郎 | 6 | 5 | 5 | 16 | 9.868 | ||
平兵衛 | 11 | 11 | 平兵衛 | 10 | 10 | 3.274 | ||||||
五郎右衛門 | 11 | 1 | 1 | 13 | 五郎右衛門 | 14 | 14 | 3.149 | ||||
小兵衛 | 10 | 10 | 小兵衛 | 10 | 10 | 2.304 | ||||||
兵蔵 | 5 | 5 | 茂八 | 5 | 1 | 1 | 7 | |||||
吉右衛門 | 6 | 1 | 7 | 吉兵衛 | 5 | 1 | 1 | 7 | 0.063 | |||
平五郎 | 1 | 1 | 平五郎 | 1 | 1 | 0.196 | ||||||
9戸 | 58 | 22(4) | 24 | 8 | 112 | 9戸 | 64 | 24(3) | 23 | 5 | 116 | 46.962 |
天 保 11 年 | 弘 化 3 年 | ||||
親族 | 天保12年 所持高 | 親族 | 弘化4年 所持高 | ||
人 | 石 | 人 | 石 | ||
かゑ | 1 | 0.795 | かゑ | 1 | 0.205 |
与重郎 | 5 | 14.613 | 与重郎 | 4 | 13.598 |
貞眠 | 4 | 9.675 | 貞眠 | 6 | 9.675 |
平右衛門 | 9 | 1.751 | 友次郎 | 9 | 0.420 |
兵右衛門 | 6 | 2.826 | 兵左衛門 | 5 | 2.826 |
小左衛門 | 8 | 1.904 | 幸右衛門 | 7 | 1.731 |
吉兵衛 | 8 | 0.015 | 吉兵衛 | 9 | 0.105 |
善右衛門 | 4 | 0.196 | 善右衛門 | 6 | 0.786 |
権右衛門 | 4 | 0.644 | 権右衛門 | 4 | 3.238 |
重蔵 | 8 | 2.121 | 重蔵 | 8 | 2.121 |
平左衛門 | 6 | 0.150 | 平左衛門 | 6 | 0.150 |
常右衛門 | 3 | 0.812 | 常右衛門 | 3 | 0.812 |
騰七 | 5 | 1.186 | 騰七 | 7 | 1.186 |
13戸 | 71 | 36.688 | 13戸 | 75 | 36.853 |
注1) | 各年「清名幸谷村宗門人別帳」(大原豊家文書)より作成。 |
注2) | 清名幸谷村5給のうち,杉田氏の知行高は79石余で,表中の所持高合計はその知行高に満たないが,これは他給からの入作がかなりあるためである。 |
注3) | 下男の項にある( )の数字は家族をもつ下男の人数を示す。 |
ところが、天保期になると、あれほど多くの下男・下女を抱えていた有力層が、一人残らず彼らを手放している。史料的な性格については、同じ家の同一史料であることから、調査内容に大きな変化があったとは考えられず、それはあくまでも、家族構成上に一定の変容をもたらす要因が生じたとみる方が妥当と思われる。このうち、一番多く下男・下女を置いていた長右衛門は、「寛保・宝暦の頃ニ至りてハ、此十里四方の内、豪農と唱られ、長右衛門長男鵜ノ沢喜内ト改、水陸地面千弐、三百俵モ入付地有之、山林ハ隣郷[上ミ新田、上谷、貝塚、柳橋]其外村ニモ所持いたし」と先の大原翁が明治二十二年(一八八九)に語るように、当時、多くの奉公人を抱えて、自作を行う一方で、大規模な小作経営を営む有力農民であったことが知られる。その長右衛門が、天保期に下男・下女を一人も抱えなくなっただけでなく、一石にも満たない所持高となって没落し、文久四年(一八六四)には、「潰家」同然となってしまうのである。しかしながら、経営の縮小、ないしは破綻を、即下男・下女の消滅の要因とすることはできない。ほかにも、下男・下女を多数抱えていた与右衛門(与重郎)は、天保十一年(一八四〇)には、所持高を増やしており、幸七郎(貞眠)も増大しないまでも、ほぼ同じ程度の所持高を保持しているからである。この家族構成の激しい変動は、経営の縮小による雇傭労働力の解消ということに起因するのではなく、天保期前後の雇傭人の給金の高騰からもたらされる労働力不足によって、六節でみるように、有力農民がその経営の主体を自作経営から小作経営へ転化したことに主因の一つがあると推察される。
表中の天保十一年には、新しく耕地を所持した四人の農民があらわれる。彼らが九戸の家から分立したものなのか、あるいは、有力農民に雇傭されていた下男・下女が、一定の土地を購入ないしは新田開発して自立したものなのかは判定できない。ただ、こうした新しい農民の出現が、相対的に有力農民の労働力不足の一因になったとも考えられる。