(1) 家の形態

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 近世初期における耕作農民の家族構成や経営形態を詳しく伝える史料は、町域の村々にはほとんど現存していない。しかし、初期検地の記載内容から、その輪郭はおさえることができる。たとえば、清名幸谷村の天正十九年(一五九一)の検地帳を集計すると、数町歩に及ぶ田畑・屋敷地を所持する百姓が相当数存在し、先の仏島村・経田村両村の天正十九年検地の構成とは、その違いを浮き彫りにする。なかでも、村内最大の十郎右衛門は、田地約四町四反(七三筆)、畑地約一町七反(七一筆)、屋敷地約一反(二筆)で、合計面積約六町二反(一四六筆)の耕宅地を所持する。田畑面積比率で田地が圧倒し、また田地一筆ごとの面積が、畑地のそれと比較して非常に大きいことが特徴となっている。さらに、同人の耕地筆数一四四筆の内訳は、主作地二二筆、分付地九六筆、永不作・当不作二六筆となり、分付地の多さが際立っている。すでに述べたように、分付主―分付百姓という関係は、必ずしも強い従属関係をあらわすものではないが、中世以来の主家との一定の結びつきが近世に入っても続き、主家は、分付百姓との請作(うけさく)関係を通して、広大な所持地の大部分を彼らに耕作させていたものと考えられる。分付地に比べて主作地の筆数は、二二筆と極端に少ない。それでも、その耕地面積は約一町五反となり、当時の農業技術で一町五反の自作経営を行うには、家父長を中心とする複合家族、ないしは譜代下人(げにん)などの賦役労働に依存しなければならなかった。戦国期の名田(みょうでん)経営がいまだ解体されず、「名田地主」たちは、自分たちの「名田畑」を彼らの労働力を使って自作したのである。清名幸谷村の場合、天正十九年の検地名請人は、寺・坊八か寺を含めて総数八一人となる。なお、名請人の規定については諸説があるが、ここでは、当面検地帳にあらわれる、主作地であれ分付地であれ、A分というAに当たる者、つまり主作百姓と分付主を名請人とする。寺・坊を除く七三人の名請人のうち、屋敷地を所持する者は、一五人を数え、あとの五八人は、いずれも耕地の所持だけである。また、一五人の屋敷地持ちのうち、三人は屋敷地だけしか持っていない。残る一二人については、そのうち九人が一町歩~六町歩の名請地を所持し、最低でも二反余を所持する。なかには、屋敷地を二~三筆持つものもいた。他方、屋敷地を持たず、田畑のみの名請人についてみると、五八人中、三〇人が一反未満の零細層で占められ、明らかに所持面積の多寡と、屋敷地の有無とは、相関があることが分かる。もっとも、屋敷地をもたない五八人のなかに、村内第二位の五町七反余を所持する内匠助を筆頭に、一町歩を超える大高持百姓が一〇人含まれ、屋敷地の名請がないからといって所持反別が小さいとは、必ずしも即断できない。後年、同村の名主を勤めた大原家は、この天正検地の名請人の一人となっていたと思われるが、同家の祖大原与左衛門は、「慶長三戊戌年如月、田中村清光寺ヨリ帰郷」とあるように、慶長三年(一五九八)に田中村から「帰郷」した(大原豊家文書)。また、やはり後年に名主に就任した村内第二位の内匠助(鵜沢家祖)の場合、その出自は、「東金岩崎天神前ト伝」えられ、「東金岩崎ニ古屋敷有、鵜ノ沢天神ト唱、今岩崎町ノ鎮守也、故ニ鵜ノ沢瀬兵衛氏神ハ稲荷ハ無之、天神ヲ祭レル也」と、明治期に大原翁が述壊しているように、古くは東金岩崎を本拠としていた。これだけでは、この二家が天正検地のときに村内に居住していなかったという論拠にはなりえないが、その検地後まもなく清名幸谷村に帰農する旧土豪層が、他村にあって同村の耕地を所持していたとも考えられないことではない。あるいは、当時、実際に清名幸谷村に住んでいても、年貢や役の賦課対象となる屋敷地の名請を免除されたのか、さらには、同じく居住していても、他地域に本拠がある場合には、屋敷地の名請は除かれたのかなど、いくつかの仮定が成り立つが、限られた史料から断定することはできない。いずれにしても、今後より精緻な分析が要請されよう。ただ、この検地においては、出入作が完全に整理できなかったということだけは、ほぼいえるであろう。
 ともかく、一筆のみならず、二筆、三筆の屋敷地をもつこれら有力農民は、家父長的な大家族を構成し、本家を中心に一族の住居を屋敷内に配置して、検地帳に名前すら出てこない譜代層および傍系家族や、名前は連ねても、一定の従属関係にある分付百姓としてのみ登録されるような小百姓をその屋敷内に住まわせていたのである。
 ところが、前節でみたように、寛永期ごろから農業生産が急速に発展し、農業形態に変化があらわれてくると、そうした複合大家族で構成される家族形態は、譜代下人層の自立、傍系家族の分立―単婚小家族の創成という事態に直面して、大きな変化を余儀なくされた。旧来のように、彼らの賦役労働に頼って自作経営を営むことは困難となり、なかには没落する「名田地主」もいれば、労働力の質を転換させることに成功して、その後も大規模な自作経営を続けるものもいた。自作経営を縮小しないで、以後もその経営を継続する場合、当然、いままでの賦役労働に代わる労働力を捜し出さなければならない。ところで、主家・本家に包摂されていた譜代下人や傍系家族は、自立したとはいうものの、彼らの経営は極めて脆弱で、一旦大きな災害や凶作に見舞われると、すぐさま経営の破綻に陥った。急場を凌ぐため、家族の一員を放出して奉公人に出さざるをえず、労働不足により自作経営を維持することが困難となっていた旧「名田地主」層や新たに台頭した有力農民たちは、彼ら奉公人を雇い入れて、その後も大規模な自作経営を営むことができた。
 こうして、村内の有力農民は、多くの下男・下女を雇傭して経営の維持、拡大に努めたが、下男・下女は、年季契約による奉公人であって、いままでのような主家に包摂されるような従属農民ではない。さらに、弟姉妹が結婚まで家に同居することはあっても、それは従属的な労働力として抱えられているのではない。宝暦・明和期に、有力農民が大きな農業経営を行うため、多数の下男・下女を抱えていたことが表16から窺える。この時期、清名幸谷村のうち、杉田知行所に属する九人の農民の平均家族数は、同表で示すように一三人前後で、とくに下男・下女の多さがその平均を上げている。両年とも九戸の農家中、五戸が下男・下女を置き、なかでも長右衛門は、宝暦六年(一七五六)に二七人、明和二年(一七六五)に二一人を抱えている。この下男・下女の性格と、彼らを使って営まれる農業経営の実態は、史料的な制約から明らかではない。下男・下女にしても、なかには、子持ちのものも含まれており、彼らを単なる雇傭関係に基づく奉公人と断定してしまうことには躊躇(ちゅうちょ)を禁じえない。とにかく、多数の下男・下女を置くこれらの家族形態からすれば、当時、相当大きな農業経営を営んでいたことは当然予測される。
表16 清名幸谷村(杉田知行所)家族構成の変化
宝 暦 6 年明 和 2 年
親族下男下女子供親族下男下女子供明和7年
所持高
石     
長右衛門5     11(2)12     4     32     長右衛門7     12     9     28     19.574
与右衛門6     6(2)5     4     21     与右衛門6     5(3)7     5     23     8.534
幸七郎3     3     6     12     幸七郎6     5     5     16     9.868
平兵衛11     11     平兵衛10     10     3.274
五郎右衛門11     1     1     13     五郎右衛門14     14     3.149
小兵衛10     10     小兵衛10     10     2.304
兵蔵5     5     茂八5     1     1     7     
吉右衛門6     1     7     吉兵衛5     1     1     7     0.063
平五郎1     1     平五郎1     1     0.196
9戸58     22(4)24     8     112     9戸64     24(3)23     5     116     46.962

天 保 11 年弘 化 3 年
親族天保12年
所持高
親族弘化4年
所持高
石     石     
かゑ1     0.795かゑ1     0.205
与重郎5     14.613与重郎4     13.598
貞眠4     9.675貞眠6     9.675
平右衛門9     1.751友次郎9     0.420
兵右衛門6     2.826兵左衛門5     2.826
小左衛門8     1.904幸右衛門7     1.731
吉兵衛8     0.015吉兵衛9     0.105
善右衛門4     0.196善右衛門6     0.786
権右衛門4     0.644権右衛門4     3.238
重蔵8     2.121重蔵8     2.121
平左衛門6     0.150平左衛門6     0.150
常右衛門3     0.812常右衛門3     0.812
騰七5     1.186騰七7     1.186
13戸71     36.68813戸75     36.853
注1)各年「清名幸谷村宗門人別帳」(大原豊家文書)より作成。
注2)清名幸谷村5給のうち,杉田氏の知行高は79石余で,表中の所持高合計はその知行高に満たないが,これは他給からの入作がかなりあるためである。
注3)下男の項にある( )の数字は家族をもつ下男の人数を示す。

 
 ところが、天保期になると、あれほど多くの下男・下女を抱えていた有力層が、一人残らず彼らを手放している。史料的な性格については、同じ家の同一史料であることから、調査内容に大きな変化があったとは考えられず、それはあくまでも、家族構成上に一定の変容をもたらす要因が生じたとみる方が妥当と思われる。このうち、一番多く下男・下女を置いていた長右衛門は、「寛保・宝暦の頃ニ至りてハ、此十里四方の内、豪農と唱られ、長右衛門長男鵜ノ沢喜内ト改、水陸地面千弐、三百俵モ入付地有之、山林ハ隣郷[上ミ新田、上谷、貝塚、柳橋]其外村ニモ所持いたし」と先の大原翁が明治二十二年(一八八九)に語るように、当時、多くの奉公人を抱えて、自作を行う一方で、大規模な小作経営を営む有力農民であったことが知られる。その長右衛門が、天保期に下男・下女を一人も抱えなくなっただけでなく、一石にも満たない所持高となって没落し、文久四年(一八六四)には、「潰家」同然となってしまうのである。しかしながら、経営の縮小、ないしは破綻を、即下男・下女の消滅の要因とすることはできない。ほかにも、下男・下女を多数抱えていた与右衛門(与重郎)は、天保十一年(一八四〇)には、所持高を増やしており、幸七郎(貞眠)も増大しないまでも、ほぼ同じ程度の所持高を保持しているからである。この家族構成の激しい変動は、経営の縮小による雇傭労働力の解消ということに起因するのではなく、天保期前後の雇傭人の給金の高騰からもたらされる労働力不足によって、六節でみるように、有力農民がその経営の主体を自作経営から小作経営へ転化したことに主因の一つがあると推察される。
 表中の天保十一年には、新しく耕地を所持した四人の農民があらわれる。彼らが九戸の家から分立したものなのか、あるいは、有力農民に雇傭されていた下男・下女が、一定の土地を購入ないしは新田開発して自立したものなのかは判定できない。ただ、こうした新しい農民の出現が、相対的に有力農民の労働力不足の一因になったとも考えられる。