(2) 神社祭礼の座位

385 ~ 393 / 1367ページ
 家の形態は、家の経営と密接に関わっていた。経営形態としての複合大家族が消滅しても、本家・分家という関係は、ユイ・マキなどの労働力提供による慣行と結びついて、その後もずっと続いた。また、主家から放出された譜代下人との関係においても、観念的な「家」の結びつきは残った。ところが、次第に分家や旧譜代下人層が本家・主家よりも経済的に優位となり、その経済力を背景に、それまで家格の面から就任できなかった村役人にもなるような事態も生まれてきた。そして、近世後期、幕藩(ばくはん)体制の基盤が動揺するようになるのと併行して、村内の取り決めや慣行も変質し、とくに氏神や村社など神社を中心に結束されていた血縁的・地縁的な結びつきに亀裂が生じてくる。こうした本家―分家、主家―従属層という関係の変質、百姓身分的な村内秩序の乱れは、天保期には顕在化し、一族をまとめる本家、あるいは、村内の行政を担当する有力農民たちは、一族の再編と家格の再認識を通して、村の秩序の回復に努めた。
 村の有力農民が、変容しつつある村内の秩序や慣習を、神社祭式の取り決めの確認を通して修復しようとしたのが、天保四年(一八三三)の南飯塚村で行われた前頁写真の天満大自在天神祭礼についての約定である。祭礼時の座位とともに、当地域で現在も行われている「奉社(びしゃ)」に関する儀式の全容を網羅した議定書であるため、以下全文を掲げることにしよう(南飯塚 富塚治郎家文書)。
 

写真 天保4年 南飯塚村天満大自在天神祭礼時の座位
 
抑当村鎮守天満大自在天神宮之義は、往古より富塚・小倉之一氏守護之産神たるニ依て、代々両家ニて祭礼・造営・修覆等諸事致来候処、中頭(ママ)ニ至り新門徒之異宗蜜(密)ニ起り、於此小倉氏ニて祭礼等之行事自然と怠り、富塚氏之一家ニて多くは神儀取行ひ来り候、然所当三代以前栄治郎代ニ至り再ひ帰伏致し、往古之通り祭式幷造営等富塚氏同様無怠慢両家ニて仕来候
但シ、御膳料・御手当等ニは、御水帳末書ニ認有之候、中畑四畝歩天神宮免助九郎作、同三畝歩助右衛門作と有之候、右名所天神之下と申処社地続ニて、両家先祖共名前之分一筆宛進退致来、右御年貢ヲ以御膳料ニ仕候
然所年数相立、当時両家之類族、其外新田出百性、在地之者共家数多く相成、信心弥厚く、依之此度奉社相企、御旛奉納仕度旨村中一同両家ヘ願ニ付、相談一結仕、右奉社諸雑費料ニ田面寄進致し、以来祭礼之式法幷大小之百性出席甲乙等当役松重郎より相定、且奉社奉納物・寄進等之趣巨細相記、後来異論無之様左之通り連印仕候処、如件
年中祭式
一正月元日古例之通り両家ニて御備餅・御酒献上、村中参詣
一正月二十五日古例之通り松重郎方ニて赤飯献上
    但、椿木之葉十二枚献候義古例ニ御座候
古例之通り今朝松重郎方ニて御かざり納仕候
    当日奉社礼式 但シ、此度新法相定申候 向後毎年如此
朝四ツ時村中於社頭神拝之後、奉社とふ前へ集会、但シ、とふ前家順ニ可仕候其時両家ニて、各年旦那寺之宿坊壱人とふ前へ同伴いたし、拝札幷祈祷法楽御頼申候、行事終て御酒頂盃
    但シ、右僧へ絁(施)物之義は、村中より十五文宛賽銭を献る也、外ニ両家より五十銅宛差出ス
神前供物 御酒 御備餅 御花 蠟燭 御赤飯 御香

奉社御酒頂盃出座定席次第
奉社御酒頂盃出座定席次第
前書之外、村中一同定席無之、落懸り着座可有之候、尤其時之年配・長幼・縁類等之義ニて少しは会釈も是あるべし、此等之義式法ニはあらず
重助義は、往古より御宮ニ抱り候家ニも無之、殊ニ村役相勤候家柄ニも無之候得ども、御水帳ニ有之草訳之百性故、此度列席を相定候
但シ、後来出百性出来候節は、御宮ヘ寄進物身元ニ応し為致候上ニて、奉社講中ニ差加ヘ可申候、両家幷当役之者熟談之上取計可申候
御料出百性之義、私領持添ニ開発致、両家より新田百性ニ取立候故、都て私領役人より村法差出候儀古例に御坐候、依之向後何れ変化仕候共、古例之通り諸事相守、異乱不可有之候
御酒頂盃之式は、盃二ツ席上ニ出し、其一ヲ当日法楽之僧頂盃之後、右幸三郎以下列座ヘ廻ス、又壱ツ之盃は、松重郎頂盃左之以下列座ヘ相廻ス、右祭礼式終て退座之後、村中老若男女拝礼御酒頂載(戴)
当日奉社面(免)田之訳 但シ、此度松重郎世話致し、 斯く成就仕候
鳥井先田壱枚松重郎此度寄進致し候、尤右田地御年貢・諸役手当として、巳之改御野銭場九ケ所之内、名所叺田小芝松重郎ヘ譲渡、高反別は、松重郎高内ニ致し置候、尤右芝地田地ニ開発致し、年来相立候て熟田仕候ハヽ、取替奉社面ニ仕候儀松重郎存寄ニ任せ可申候
名所深之田之儀は、巳之改御野銭場之内ニて谷地開発仕候
但シ、右地面之儀は、名所前之芝内ニて道橋普請之節土取候跡、近年郷田と唱ひ植附候場所ニ御座候
名所松山後畑は、巳之改御野銭場之内此度開発仕候
名所野中畑享保十九卯年御縄入之節、御竿先ニ候処、此度荒地開発仕候
右四ケ所田畑奉社とふ前ニ相当り候宅ニて作立、其物成等凡米弐斗五升と銭壱貫文ニ見積り、奉社之御酒・赤飯幷諸雑費ニ相懸ケ可申、尤其年々之豊凶ニより、とふ前之内ニて少々損益可致候

  奉社飲食之法
御酒頂載之以前赤飯を差出し可申、尤煮しめ類一品ニて花れいニ致へからず、且又酒肴等こまめ・なます・牛房(蒡)・金平・大根之煮物・芋のにころばし等ニて自分作立之品のミニ致し〓(倹)約取計可申候
但シ、御酒頂盃之法、御はら盃ニて二廻りいたし、神器ニて二廻り、其後とう前之亭主より初て盃一廻りニて結盃也
一六月十五日  社内掃除等奉社とう前ニて可致、其外正、五、九月古例之通り両家ニて致べし
一九月十八日  古例之通り神前御神燈二張両家より献上
十八日夕方御旛建候節、御酒壱升幷御神燈之油弐合奉社とう前より献上
右御酒壱升翌廿日夕方旛納候節開可申候
当日夜村中より多少ニ不限御酒幷備餅二ツ宛献上 但シ、御備大小は定べからず
右村中より献上致し候御酒・餅は、其夜老若男女参詣之者出席勝手次第開可申候、其盃幷肴之儀両家より有合候品差出可申候
 一九月十九日御祭礼 古例之通り松重郎方より御酒・備餅献上 村中参詣
右当日村中より絵馬壱枚宛献上、尤絵馬大小之儀は、其人之信心ニまかせ勝手次第、定式なし
一九月二十五日  古例之通り松重郎方より甘酒献上
一十一月十五日  当日紐解子供参詣、御備献上帰宮之節、松重郎宅ヘ立寄、祝詞可申述候
右当日紐解子供松重郎方ヘ立寄候訳柄は、此度祭式等迄議定取極、村中安全祈候労を代々謝之礼也
一十二月二十五日 古例之通り松重郎方ニて御かざり建、幷掃除両家ニて相勤
前條之通り式法相定、一結仕候上は、代々移り変り何れ之家ニ不限、貧福盛衰可有之候間、御社頭大破、小破とも新古之百性無差別、其時之身元宜敷ニ随ひ、奉納・寄進之儀両家ヘ篤と示談之上、信心之輩情(精)力を尽し可致候、乍去社地竹木等は、両家之外勝手儘取計仕間敷候、然上は、向後幾数十年迄も異論不可有、益々神徳を尊ひ、右之條々両家指揮堅相守、村中一同安全祈願不可有怠慢者也、依て一同承知連印、如件
松重郎[印]      
幸三郎
右本文ニ両家と申は、此弐軒也
源太郎[印]
平左衛門[印]
岩八[印]
伊之助[印]
次助[印]
庄左衛門[印]
右六家は、松重郎分家類族也
孫右衛門[印]
定次郎[印]
孫左衛門[印]
庄七[印]
与右衛門[印]
長四郎[印][印]
右六軒は、幸三郎分家類族也
重助[印]
粂七[印]
吉蔵[印]
右二軒は、重助分地類族也
右之通り連印議定仕候処、相違無御座候上は、子々孫々迄異論不可有之、村中一同安全祈所也

御旛二流幷神器寄進之覚
御旛木弐本粂七
松重郎并建木弐本重助
御旛染代吉蔵木綿壱反
庄左衛門
伊之助
幸三郎木綿壱反右五軒之綿打之儀、庄七家内留次郎寄進
旛引揚縄
 
源太郎木綿壱反長四郎御旛木細工人
孫右衛門助合常八
 
庄七木綿壱反岩八白木綿壱反
孫左衛門定次郎
与右衛門
  右二軒ニて寄進余り過当ニ付、少々助合
 
平左衛門右四軒之綿打寄進松重郎老母 御旛縫糸寄進
 
右之通り寄進仕、其余不足之分は、郷地之松葉三拾八駄余松重郎引受、世話致し、出来揚り奉納仕、目出度祭礼相済申候
(別帳)
    戸塚豊後守知行所
          名主 松重郎
    森覚蔵御支配所
          名主 孫右衛門
 表紙共ニ十三枚
右二冊之処、壱冊は村役人所持附渡り、壱冊はとう前ニて預ル

 
 明治三年(一八七〇)に調査された当神社の「社籍書上帳」(同家文書)によれば、同社は、天正十八年三月に勧請され、旧号は天満自在天神と称され、明治二年に天満大神と改称された。江戸時代の早い時期から、町域で不受不施派信仰が興隆したことは、よく知られている。熱心な信者は、幕府の厳しい弾圧を逃れて、地下に潜伏してその信仰を貫いたが、町域の村々ではそのため大きな混乱もまたもち上った。右の議定書の冒頭に「新門徒之異宗蜜ニ起り」とあるのは、その不受不施派のことを指し、この不受不施派信仰のため天満自在天神の行事が衰微したと記している。そして、「両家之類族、其外新田出百性、在地之者共家数多く相成」ったので、新たに「奉社」を企て、「御旛(おはた)」を奉納することを約束するとある。すなわち、血縁・非血縁を問わず、本百姓数が増加したため、村内における従来の規律、慣例を再確認する必要があり、富塚家と小倉家とを中心に奉社の祭礼執行が決定されたのである。
 当然ながら、席順は、当日の法楽僧を囲んで左右に松重郎(富塚家)と幸三郎(小倉家)が、第一、第二位の上座に位置し、当時の名主と組頭がそれぞれの横に着座することになる。次に、上座に向って左右に二名ずつ座り、そのなかの一人重助については、往古から同社に関係する者ではなく、また、特別村役人を勤めた家柄でもないが、検地帳に草分けの百姓であることが明記されているので、公式の席に座ることを許していると記している点は、とくに注目されよう。連名している一七人のうち、松重郎、幸三郎、重助を除くすべての者は、これら三家のいずれかから分家、ないしは分地した者であり、公式の座位に着くことが認められている源太郎、平左衛門は、松重郎の分家であり、孫右衛門は、幸三郎の分家筋に当たる家で、他の者よりこの二家と血縁関係が強い人たちであったと思われる。このように、公式の席に座るのは、本家と、その本家に近い親類筋の家であり、他の分家や分地百姓は、定式のない座外に座った。この議定は、座位や盃順(さかづきじゅん)を確定することによって、家格を正すということのほかに、神社という信仰を媒介として、村内をまとめ、村民が相互に睦じく結びつくことを目的に取り替わされたものであった。