(3) 初生女子相続

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 家の問題に関連して婚姻と相続の実態をみた場合、当地域には特有な相続形態があったことが指摘できる。初生女子相続と隠居制がそれである。まず、初生女子相続から検討に入ろう。
 幕府は、武家に対しては、男子である継嗣の有無によって家名継絶など徹底した相続法を適用したが、庶民法については比較的緩やかであった。「慶安触書」や「田畑永代売買禁止令」、「分地制限令」など農民法や土地法については、明確な規定があるにもかかわらず、相続に関しては、ほとんど触れられていない。とはいえ、原則的には、農民の間でも家を継ぐ者は、長男であったことは変わりない。しかし、町域村々においては、男子、女子に関わらず、最初に生まれた者、つまり第一子が家督を相続する習わしであった。もちろん、男子が第一子であれば長男として家督を継ぎ、女子ばかりの場合に、長女に聟養子を迎え、その聟養子が将来家を継ぐ相続方法は、他地域でも一般にみられる形態である。問題は、第一子が女子で、しかも二子以降に男子が出生した場合でも、その男子が家を相続せずに、必ず長女に聟養子を迎えて、当主が隠居、ないしは死去したとき、その聟が家督を継いで当主となっていることである。
 そこで、第二子以下に男子がいるにもかかわらず、第一子の女子に聟養子を迎えている事例を萱野村(旗本服部知行所三四八石余)でみることにしよう(表17)。同村での聟入り(=初生女子相続)の件数は、天保十二年(一八四一)から明治二年(一八六九)までの間に、一〇例が数えられ、単に実子である男子が幼少や病弱という理由で中継的養子を迎えたというのではないことは、表中の実男子の年齢が十五歳を超える者が、かなり含まれていることからも明白である。また、その第二子以下の男子に嫁を貰って相続させている例は一例もない。逆に、安政元年(一八五四)の当主安五郎が、長女すみ(二十六歳)に聟吉三郎(三十四歳)を迎えた例では、一人しかいない男子の第二子周蔵(二十二歳)は、明治二年には宗門帳から名が消え、他家へ出ていることが確認される。つまり、そのことは、たとえ実の男子が存在しても、第一子が女子の場合は、必ずその初生の女子が聟を迎えて家を相続することを意味している。
 
表17 萱野村(服部知行所)初生女子相続の状況
天保12※伝左衛門(42)妻(41) 聟庄左衛門(28)娘なつ(20)娘(15)伜茂助(10)
弘化3 新右衛門(50)妻(40) 聟留助(24)娘ふさ(19)娘(9)伜新蔵(7)
嘉永4 伊之助(45)妻(41) 養父(69)聟幸吉(28)娘いち(23)娘(14)娘(11)伜留□(8)娘(15)
安政1 安五郎(55)聟吉三郎(34)娘すみ(26)伜周蔵(22)娘(19)
安政3 彦兵衛(48)妻(38) 養父(60)養母(52)聟直吉(23)娘さき(21)娘(7)(5)
文久1 太右衛門(44)妻(44) 父(62)聟与吉(21)娘きの(17)娘(12)伜門蔵(4)
文久3※庄左衛門(50)妻(41) 養母(63)聟伝左衛門(23)娘むめ(21)伜直吉(17)娘(12)伜(4)
元治1 武右衛門(43)妻(33) 聟武左衛門(25)娘はつ(16)伜和吉(15)娘(4)
慶応2※庄左衛門(53)妻(44) 養母(66)聟房吉(29)娘むめ(24)伜直吉(20)娘(15)伜(7)
明治2 伝右衛門(47)妻(33) 聟半右衛門(26)娘さと(22)(15)伜(3)
注1)  各年「宗門人別帳」(横田栄彦家文書)より作成。
注2)  ※印は同一家族を示す。

 天保十二年の伝左衛門家においては、第三子に伜茂助(十歳)がいるにもかかわらず、その年、長女なつ(二十歳)に庄左衛門(二十八歳)を聟にとり、文久三年(一八六三)には、その聟庄左衛門が当主となって、長子むめ(二十一歳)に聟伝左衛門(二十三歳)を添わせている。しかし、その伝左衛門は何らかの理由で離別となり、慶応二年(一八六六)になって、再びむめ(二十四歳)に房吉(二十九歳)を聟養子に迎えているのである。庄左衛門に二人の実の男子があったのは、同表が示す通りである。そのほか、嘉永四年の当主伊之助、安政三年の当主彦兵衛のどちらも聟養子が当主になったものであることは、父母が養父母となっていることからも明らかである。こうした初生女子相続の実態は、ひとり萱野村だけでなく、清名幸谷村、神房村、南玉村以下、宗門帳・戸籍簿など戸籍関係の史料が現存している村では、すべて実証でき、村役人就任の有無など家系及び家格の差異や所持高の大小に関係なく、村内全体がこの相続慣行のもとで婚姻、相続を行っている。清名幸谷村(旗本戸塚知行所)の重郎右衛門は、弘化四年(一八四七)に隠居して、養子重右衛門に家督を譲るとき、実子である第二子の箕之松について「追々成長も仕候間、夫々他縁付心仕度も可仕」と、他家へ養子に出す心構えでいた。ところが、養子に出すには、「少々費等も相懸」かるという理由で、近所へ別家させた。このことは、同村においては、第一子でない男子は、ふつう養子に出すのが慣例となっており、仮に養子に出さない場合でも、家に留まることはなく、別家する習わしであったことをよく示している。この重郎右衛門は、組頭を勤める家柄で、この場合はたまたま別家させることになったが、いずれにしても、村役人を勤める家格であろうと、第一子が女子であれば、その女子に養子を貰って、家督を譲ることになっていたのである。家の確実な継承、農業経営における有効的な労働力の確保と配分などを基礎に、この初生女子相続慣行は、町域の村々はもとより、町域を越えた他地域でも普及していた。この慣行は、明治政府の相続法による成文法の強制によっても簡単には解体せず、その後も長く生き続けた。