(4) 隠居制度

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 初生女子相続と関連して、当主が隠居する際、第二子以下の男子を引き連れて隠居する慣習も当地にはあった。家督相続は、大別して当主が死去することにより遺産を相続する場合と、生前に隠居という形をとって、相続人に予め家督を譲る場合とがある。町域の村々では、初生女子相続が広まって、第一子の女子に聟入りさせた聟養子へ、比較的早く家督を譲り渡して隠居することが多かった。その際、隠居は、自己の老後を考え、一定の財産を留保するのが一般的であった。いま、初生女子相続による聟入りか、あるいは女子ばかりで必然的に聟を迎えたのかは判定できないが、どちらにしても聟に家督を譲渡して隠居したとき、どのような財産上の条件を約定事項に掲げ隠居したのか、木崎村(旗本服部知行所)の富塚七兵衛の例で窺ってみよう。
 万延元年(一八六〇)十二月の「覚」(富塚勝男家文書)には、「昨年六月中、身上相渡」しとあり、養子次兵衛へ安政六年に家督を譲ったことが記されている。家督相続ののち、相続人の次兵衛が隠居との約定を不履行したことから、当時、隠辺にあった七兵衛が条件を書き上げて、約束の実行を促したものがこの覚書である。約定事項は八か条からなり、要約すると次のようになる。
 一飯料米一俵ずつを搗き立てて差し出すこと。
 一塩・味噌・薪は支障のないよう差し出すこと。
 一小下女一人を召し抱え差し出すこと。
 一隠宅屋根替えは、破損のとき行うこと。
 一娘里へ遣わしている名所布子田新兵衛分地面を、二、三年間隠居の方が不如意なので取り上げること。
 一先代よりの米八俵半入りの隠居料田地も小遣などに甚だ差し支えるので、半分の四俵一斗入り分を二、三年のうちに取り上げること。
 一幾右衛門向山は、七両で里へ渡していたが、相当の利足を添えて隠居の方で受け戻すこと。
 一酒造蔵については、先代からの約束通り隠居小遣料として、年々蔵敷料を六両ずつ十二月中に差し出すこと。
 
 右の八か条を列記した上で、金二両余の畑地だけでは生活困難なので、最低でもひと月に必要な小遣料二、三分を必ず差し出すよう申し述べている。そして、そのあと六か条の付帯条項がつけ加えられている。同じくその六か条の要点を示すと、(1)酒造蔵敷料は、先代のときは年々一二両ずつであったこと、(2)先祖伝来の立木を伐採するときは、隠居に相談すること、(3)親子の「情愛」を確認するため、三日から五日のうちに一度は隠宅に来て、「晴雨」の挨拶をすること、(4)現在当主である養子も、いずれは隠居になるのであるから、隠居の身の上を十分に弁え、家計について報告すること、(5)隠居に不法を働いた小作人の地所を取り上げること、(6)養父に対する所業が「不自由」をかけ、ただ「捨扶持」のみにて「押込同様」な振舞いをして「繁昌」した家はないので、篤と心得ること、など隠居側から主張する権利の内容が詳細に述べられている。これは、養子、実子を問わず、隠居が家督を譲ったあとも、家政に干渉したことが少なくなかったことを暗示している。それは、隠居の「家」における権利の強さを表現しており、近世社会の家長権というものが、どのようなものであったのか、再考の余地があることを示唆しているといえよう。
 さて、惣領相続とは異なり、初生女子相続の場合、第一子が女子で、そのあと男子が出生したとき、この男子は、養子として他家へ出ることが一般的で、稀に実父が聟に家督を譲ったのち、隠居のときにいっしょに連れていくことがあった。経田村の三郎左衛門が天保三年(一八三二)閏十一月に、地頭所へ願い出た吉五郎の分地の件(今井良男家文書)は、以前に佐次右衛門が隠居したとき、隠居料の地所を吉五郎の代になって分地しようとしたものであった。「佐次右衛門と申者子共引連、隠宅を理補(補理)、隠居仕候、是迄相続」してきたが、「当相続人吉五郎義、此節改メて私方より地所譲り請、分地百姓ニ相成度旨」申し出たので、「私持高弐拾四石九斗四升八合余之内、吉五郎方へ田畑ニて四石九斗四升八合余之分ヲ分地致遺し、百姓ニ仕度奉存候」と、ちょうど二〇石を超える所持高部分を分地するよう願い出た。佐次右衛門が隠居するときに分地できなかったのは、「私先祖草分ケ田畑・屋敷共高三拾五石七升五合六勺七才有之候内」、佐五右衛門へ七石九斗九升七合四勺二才、善覚へ三斗六升、宗左衛門へ二石一升、佐右衛門へ七斗五升を、第三節で引用したように、寛永期にすでに分地したために、後年、田畑高五石七斗八升二合三勺を隠居料として、佐次右衛門の隠居のときに分地して別家させようと試みたが、「本家之高弐拾石ニたり不申」ということで認可されなかったという理由に基づく。やむをえず、「分地と申ニは無之、隠居一代扶持料と相定置」いて、「隠居死後ハ、右扶持方相断」る方法を採ったのである。ところが、その田畑は、「隠居一代扶持料」の約定があったにもかかわらず、隠居死後も「役(厄)介等有之」ので、そのままずっと隠居筋の子孫が預り、吉五郎の代に至って、本家も二〇石以上の所持高になったことから、改めて分地を願い出たというわけである。
 この分地の形態は、初生女子相続により、他家へ第二子以下の男子を聟として出さない場合、その男子の実父が隠居するときにいっしょに隠宅へ移り、一代限りの隠居料である筈の田畑を、隠居の死後もそのまま耕作し、後年に分地が認められて、本百姓に取り立てられた形態である。これは、第一子の女子に聟養子を迎えた有力農民層の家でしばしばみられる別家の方法であったと考えられる。文政八年に、木崎村でも、隠宅の祖母が生涯の「附添地面」として、田畑一五六枚を所持し、祖母が死去したのちも、孫七兵衛が引き続き所持し、田畑をそのまま預けてくれていることに対し本家七兵衛へ礼を述べ、決して質地などには入れないことを約定している事例なども、それと全く同じ形といえよう。
 近世後期、当町域における隠居時の年齢は、大体五十歳前後である。現代よりも寿命が短いといっても、まだ働き盛りの年齢であり、彼らは、家督を相続人に譲って隠居になると同時に、第二子以下の男子を連れて隠宅で寝起きしながら、農作業の技術を伝授したり、日常生活の送り方を体得させたりして、その男子が成長するのを待ちわびたものと想像される。このように、初生女子相続と隠居制とは、前者においては、早い時期からの男子労働力の確保と家産の継承が確実に実現でき、後者は、聟養子の相続によって、実の男子が家内で浮き上がった存在となる弊害を解決できることから、両者は、うまく補完し合った極めて合理的な戸籍上の制度であったといえる。