(5) 家屋

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 日夜農耕にいそしみ、あるいは漁業生産に明け暮れる郷土の人びとは、江戸時代には、どのような家屋に住んで日常の生活を送ったのであろうか。江戸時代の農家は、身体を休めるための憩(いこい)の場だけではなく、藁(わら)を打ったり、草鞋(わらじ)を編んだりする、いわば夜仕事を行う作業場であった。雪隠(せっちん)(便所)は、貴重な肥料の供給所としての役割を担っていた。名主を勤める家では、屋敷そのものが、領主役人の廻村のときの旅宿となることから、必然的に大きな屋敷を構えることになる。近世初期においては、「名田(みょうでん)地主」が多数の従属農民を抱え、彼らの賦役労働で大規模な手作り経営を行っていた関係から、家屋自体も、多くの従属農民を収容できるような大きなものであったと予測される。しかし、史料的に当時の家屋を復元することはむずかしく、現存史料から家屋の規模や形態が確認できるのは、近世初期の「名田地主」経営から、奉公人を雇傭して営まれる「地主手作り」経営に移行した中・後期以降の家屋図である。とりわけ、後期になれば、自作経営のほかにも、質地、質流れの方法で集積した広大な田畑を小作に出し、しかも酒造業をはじめとする特産物加工業を営む有力層の屋敷図が、かなり残されてくるようになる。
 図6は、嘉永二年(一八四九)の清名幸谷村(旗本杉田知行所)の名主を勤める大原家の屋敷図である。母屋の部屋数は八間(ま)で、その畳数は五七畳半となり、それに、板間を挾んで六畳二間の離れ間がある。この離れ間は、多分隠居部屋と思われる。母屋には広い内庭がつき、その土間には、竈(かまど)や流し台が備わっている。そのほか、長屋門に物置が付属し、屋敷地に納屋(なや)、厩(うまや)、小屋、土蔵、味噌庫(みそぐら)、薪納屋(まきなや)、雪隠が点在する。用水の点で町域に特徴的なのは、水利条件が非常に不良なことから、天水を屋敷地内はもとより、屋敷地の周囲をめぐる堀溝に貯水し、その用水を水田、とくに苗代に利用したことである。そのことは、図6からも、はっきりと読み取れる。

図6 嘉永2年 屋敷図(清名幸谷 大原豊家文書)
 
 大原家の屋敷地と家屋は、同家が名主を勤める家柄で、しかも、かなりの耕地を集積し、各種の製造業を営んだ有力農民であったことから、いきおい大きな家屋となったが、一般農民の場合は、日々の生活・生産に支障がない程度の小さなものであった。近世の家屋は、村内での家格や役職によって家屋の大きさが決められていたので、たとえ一般農民が富裕になって経済的余力ができたといっても、勝手に大きな家屋を建てることはできなかった。
 表18は、明治十八年(一八八五)の家屋規模を表示したものである。明治十年代ということで、そのまま江戸時代の家屋規模とすることは無理なのであるが、家屋というものは、短期間に何度も建て替えられる性質のものではないことから、同表の家屋は幕末段階の農家の規模をほぼ表現していると考えても大過ないと思われる。③小倉長左衛門、⑬小倉平蔵、⑯中村兼次郎にみられるように、本家(母屋)と雪隠を備えているのが、当時の基本的な家屋の形態であった。そのほか必要に応じて、隠宅、長屋、馬屋、木小屋、土蔵などの建物が増設される。これら付属の建物を具有している家ほど、本家の坪数も大きく、幕末期に村役人を勤めた有力農民が、これらの家を所有していた。①小川泰蔵は四〇坪の本家をもち、すべての付属建物を有している。また、四五坪の最大の本家をもつ⑮小川礒司や、三二坪の⑩小川酉松も当時の有力層であったろう。同表を一瞥して気づくことは、本家の坪数が六坪から四五坪までまちまちであるが、一六人中、およそ半分に近い七人が一八坪の本家をもっており、大体において、一八坪程度の母屋が、当時の一般的な広さであったといえる。決して大きいとはいえないが、それは、夫婦を中心とする直系小家族の生活に最も適合した広さであったといえるかも知れない。また、注目すべき点は、八戸もの家が隠宅を構えていることである。比較的小規模な本家しかもたないものでも、大部分の家が隠宅を設けている。これは、町域村々で特徴的な実男子を連れて隠居する隠居制の慣行に起因する。
表18 柿餅村の家屋(明治18年)
氏   名建物棟数間口奥行
①小川泰蔵本家1棟8間5間
隠宅13.54.5
長屋162
土蔵123
馬家16.52
雪隠14.52.5
木小家142
②小倉□兵衛本家152.5
隠宅121.5
雪隠115尺
③小倉長左衛門本家17.52.5
雪隠121
④小倉半吉本家17.54
隠宅142
雪隠132
⑤小川粂蔵本家163
隠宅142
馬家142
雪隠12.52
木小家11.51.5
⑥小川長五郎本家15.53.5
隠宅121.5
雪隠12.51.5
⑦小倉栄吉本家162.5
隠宅13.52
長家15.52
馬家14.52
雪隠142
⑧小倉初太郎本家163
物置142
雪隠142
⑨小川吉左衛門本家163
馬家11.52
木小家122
雪隠15尺5尺
⑩小川酉松本家184
隠宅162.5
土蔵123
馬家14.52
雪隠142
木小家152
木小家121.5
⑪小川巳之松本家163
物置14.52
雪隠132
木小家142
⑫小川与三郎本家163
馬家12.52
雪隠12.51.5
⑬小倉平蔵本家163
雪隠11.51
⑭小川半兵衛本家163
隠宅13.52
物置142
馬家151.5
雪隠142
⑮小川礒司本家195
長家17.52
馬家15.52
雪隠142
木小家142
⑯中村兼次郎本家132
雪隠111
注) 明治18年「家数取調書」(小川嘉治家文書)

 その隠居が住む隠宅の家屋を図示すると、図7のようになる。年代は不詳であるが、幕末・維新期のものであることは、ほぼ間違いない。三間四方の建坪九坪という小さな隠宅で、茶棚、囲炉(いろり)、書院も作られ、隠居部屋に相応しい(ふさわしい)こじんまりとした機能的な隠宅である。九坪という広さは、表18の八戸の隠宅が三坪から一五坪までの広さであったことから、ちょうど中ぐらいの規模をもった隠宅といえる。

図7 隠居宅(北吉田 十枝澄子家文書)