(6) 人口の推移

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 近世中期以降、小農民の経営形態が直系による単婚小家族であったことは、これまでも再三述べてきた通りである。そこで、町域の村々では、そうした小家族で構成される家数が、どのくらい存在していたのかを、表19を利用して把握することにしよう。同表を作成するにあたって、二ノ袋村と清水村は、そのごく一部が町域に編入されただけであったので、いずれも省いて作表した。
表19 大網白里地域の村々の戸数の推移
寛政5年
村 高
1戸当り
所持高
寛政
5年
明治
5年
寛政5年
村 高
1戸当り
所持高
寛政
5年
明治
5年
石      石      石        石   
砂田村 206.322  10.859  19 19 小西村 384.3454  4.63 83 64
萱野村 391.35938 10.577  37 37 養安寺村 571.7   7.522 76 61
神房村 337.753  9.128  37 39 山口村 1589.704  12.043 132 86
小中村 1162.247  12.633  92 29 南横川村 749.7175  7.572 99 105
平沢村 32 富田村 604.9776  7.657 79 77
門谷村 19 星谷村 ――  ―― 7
宮崎村 12 北横川村 53.237  4.436 12 12
永田村 1588.846  9.629  165 160 上貝塚村 51.982  2.165 24 25
駒込村 892.3403  15.655  57 73 清名幸谷村 456.85   5.71  80 85
赤荻村 151.217  6.574  23 23 南飯塚村 70.826  5.059 14 16
経田村 212.1054  5.581  38 40 北飯塚村 73.488  3.674 20 19
池田村 322.1998  9.763  33 37 柿餅村 40.685  2.712 15 15
南玉村 478.6   10.877  44 38 上谷新田 55.416  3.463 16 17
大竹村 417.494  9.075  46 43 木崎村 181.49711 6.258 29 28
金谷村 500    11.627  43 42 柳橋村 142.8   3.57  40 44
長谷村 400    13.793  29 30 北吉田村 284.107  9.164 31 29
小沼村 500    9.615  52 43 桂山村 277.2   7.491 37 34
真行村 402.758  11.877  36 33 長国村 153    4.636 33 30
名 村 191.64   12.776  15 15 九十根村 332.665  8.529 39 37
餅木村 221.4   9.626  23 34 下ケ傍示村 166.09   7.909 21 18
大網村 2708.8179  5.209  520 457 細草村 604.01001 4.682 129 133
仏島村 160.839  5.957  27 25 四天木村 601.438  3.558 169 130
荻福田村 7.549  1.509  5 4 今泉村 729.469  2.456 297 314
 
合 計
石       
19428.6924 
 
6.899
 
2816
 
2840
注1)  寛政5年の村高,戸数とも『改訂房総叢書』第5輯より引用。
明治5年の戸数は,明治5年「山辺郡区画書上」(清名幸谷 中村昭家文書,鵜沢照夫家文書)より引用。
注2)  二ノ袋村と清水村は,一郎の地区が大網白里町に編入されただけなので省いた。
注3)  明治5年の書上には,砂田村,宮崎村,赤荻村の3か村については記載がないので,寛政5年の戸数をそのまま準用した。

 寛政五年(一七九三)時点では、総戸数二八一六戸で、一戸当たりの平均所持高は、六石八斗九升九合となり、当地域の単婚小家族による農業経営が、平均七石弱であったことが分かる。戸数に対して村高の大きいのは、駒込村の一戸当たり所持高一五石余を筆頭に、長谷村の一三石余、名村、小中・平沢・門谷・宮崎村、山口村の一二石余が続き、傾向として丘陵部が比較的大きい。反対に町域中央部の村々では小さい所持高の数値を示し、海岸へ向かって北吉田村、桂山村、九十根村、下ケ傍示村が中央部よりわずかに大きくなり、沿岸の四天木村、今泉村に至って急激に小さくなる。平野部であるにもかかわらず、町域中央部が一戸当たり所持高が小さいというのは、用水の不便さが大きく影響していると考えられ、海岸に面した四天木村、今泉村の両村が小さいのは、漁業で生計を立てる者が多いことと、砂地という地味の劣悪性に因るものであろう。
 次に、戸数の推移についてみると、全体では、寛政五年から明治五年にかけて、二八一六戸から二八四〇戸と、わずかに二四戸増加しただけである。総戸数の数字をみる限りでは、目立った変化は認められない。ところが、各村の戸数の推移に目を移すと、顕著な変動があることに気付く。非常に増減の激しい村は、大網村、山口村と、それに四天木村の三か村である。大網村では六三戸の減少が認められ、山口村もそれに次いで四六戸の減少があった。それとは対照的に、四天木村は、一三一戸の増加があった。そのほか減少した村では、小西村の一九戸、養安寺村の一五戸、また増加した村は、今泉村の一七戸、駒込村一六戸、餅木村の一一戸が目立つ程度である。この傾向は、町場である大網村と、内陸の農村地帯である小西村、養安寺村などからかなりの人口が流出し、四天木村、今泉村に多数の人口が流入しているということを示し、この人口動態の数字だけで予想するならば、九十九里地引網漁業の発達に伴い、水主労働として内陸部に居住する農民が、沿岸の村々へ移住したといえるかも知れない。また、浜芝地の開発により、生産条件が一段と高まったことも、移転により一層拍車をかける結果となったであろう。幕末に向かうにしたがって、在村から町場へ多数の人口が流出していくのがふつうで、大網白里町域の人口動態をみると、その逆の現象を示しており、ここにも、明らかに九十九里浜という海岸を控えた当地域の特殊性があらわれている。
 ところで、戸数については、前表から町域全体の数値を知ることができたが、人口に関しては、史料上で全体を把握することは、ほとんど困難である。わずかに一村規模で、それも相給村落の場合は、給別の人口が把握できるのみである。萱野村は、旗本服部氏と同川井氏による二給支配の村で、村高三九一石余のうち、約九〇%に相当する三四八石余を服部氏が知行した。その服部知行所付きの農民の戸数と人口の推移を示したのが、表20である。天保十二年(一八四一)から慶応三年(一八六七)まで、戸数については、二九戸から最高三三戸まで大きな変動はない。人口は、嘉永三年(一八五〇)の一五〇人を最少に、慶応二年の一八七人までわずかな振幅はあるものの、指数に激しい増減は認められない。したがって、一戸当たりの家数も五人弱から六人というように、ほぼ一定している。これらの数値から、近世後期においては、萱野村では戸数も人口も顕著な変動はなかったことが明らかとなり、一世帯がおよそ五~六人の家族で構成されていたことが分かる。嘉永六年(一八五三)の南玉村の一世帯当りの家族数を算出すると、戸数三八戸に対し、人口は一八三人であるから、およそ五人となり、萱野村の場合と大差ない。二か村の事例から分かるように、当時の農家は大体五人前後の家族で構成されており、現在の農家の家族形態の原型がこのときすでにでき上っている。なお、一家族の平均家族数五人という数値を利用すれば、表19で町域全体の人口が類推できる。
表20 萱野村(服部知行所)の人口の推移
戸数 人  数 1戸当
り人数
人数
指数
合計
天保12 29戸 89人 76人 165人 5.7人 100
天保13 31  87  73  161  5.3  98
弘化3 31  85  70  155  5.0  94
弘化4 30  85  70  155  5.2  94
嘉永1 31  81  71  152  4.9  92
嘉永2 32  83  71  154  4.8  93
嘉永3 32  82  68  150  4.7  91
嘉永4 33  84  69  153  4.6  93
嘉永5 32  87  76  163  5.1  99
嘉永6 33  85  81  166  5.0  101
安政1 32  85  80  165  5.2  100
安政3 32  90  81  171  5.3  104
安政4 33  90  83  173  5.2  105
安政5 32  92  83  175  5.5  106
安政6 33  91  81  172  5.2  104
万延1 32  88  87  175  5.5  106
文久1 32  92  93  185  5.8  112
文久2 32  90  96  186  5.8  113
文久3 32  87  92  179  5.6  108
元治1 33  89  88  177  5.4  107
慶応1 32  93  91  184  5.8  112
慶応2 31  93  94  187  6.0  113
慶応3 32  97  89  186  5.8  113
注) 各年「宗門人別帳」(横田栄彦家文書)より作成。