(7) 通婚圏

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 住居の移転はいうに及ばず、人びとの移動さえ大きく制約されていた江戸時代において、町域の村々では、どの程度の人びとの動きがあったのか、聟入り、嫁入りの動向を通して探ってみよう。初生女子相続が慣行となっていた町域の婚姻制度からして、惣領制が一般的な他地域の婚姻の様相とは異なった結果があらわれることは、当然予測される。狭い耕地しか所持していない小農民は、その経営の弱さから、常に夫婦が強い絆(きずな)に結ばれながら、農耕に従事することが要求される。また、一歩間違えれば、生活の破綻を期たしかねない立場に置かれていたので、家の存続に重大な影響を及ぼす聟取り、嫁取りの際には、家格、素行、居住地の遠近などを考慮して慎重に決定した。
 図8は、明治五年の真行村(山辺地区)、萱野村(瑞穂地区)、北吉田村(福岡地区)の聟入り、嫁入りの出身地の状況を調べたものである。真行村の全戸数三四戸の内訳は、寺院一か寺、神社一社、民家三一戸となり、同図では、通婚圏の掌握という性格上、寺院と神社は除き、民家のみで集計した。他の二か村も同様で、萱野村は四二戸のうち、寺院二か寺、神社一社、それに播磨国から入村した一名を除き、民家三八戸、また、北吉田村は、三二戸のうち、寺院一か寺、神社一社、旗本仙石氏の家臣の帰農者を除き、民家二九戸で、同国の調査対象戸数は、九八戸ということになる。

図8 真行村・萱野村・北吉田村の聟と嫁の出身地(明治5年)
 
 この図をみると、次の諸点が特徴として挙げられる。第一に、町域内の村々と、町域外の村々との聟入り、嫁入りの人数を比較すれば、町域内が九七人、町域外が八〇人となり、町域内での縁組みの事例が多いということである。しかも、町域外でも山辺郡、長柄郡、千葉郡、市原郡、埴生郡と、いずれも町域内の村々に隣接ないしは近距離にある郡ばかりである。なかでも、町域の村々の南側に接する長柄郡からの聟入り、嫁入りが五七人と圧倒的に多い。そのことは、婚姻が、極めて近在の村々との間で行われたことを物語っている。第二、そのことに関連して、町域内でも、萱野村が属する瑞穂村で三三例、真行村が属する山辺地区で一九例、北吉田村が属する福岡地区で一四例というように、調査対象地の村々のなかで婚姻が多く行われることである。幕末期の通婚圏は、村内婚が主体であり、村を越えても、せいぜい同じ地区に属する村々からの聟入り、嫁入りであった。第三に、聟入りと嫁入りの件数を比べると、七七人対一〇〇人で、嫁入りの方が多いが、それほどの大差は認められないということである。町域内だけをとると、聟入り五一人、嫁入り四六人となり、むしろ聟入りの方が多い。聟入りと嫁入りの件数が接近しているのは、町域で慣習となっていた初生女子相続の結果によるものである。以上、三点の特色から、町域における婚姻の地理的範囲では、村内婚が多く、たとえ村外婚でも、町域の村、あるいは町域の郡、さらには周辺郡村というように、非常に近距離の地域から聟入り、嫁入りが行われたと結論できる。とくに村内婚においては、初期以来の本家・分家といった関係とは全く性格を異にする、婚姻による血縁関係の結びつきが、村落内で強く残っていくことになる。