(2) 仏教に対する幕府の態度

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 諸宗に対する法度(はっと)の下付がおこなわれた―慶長六年(一六〇一)の高野山への法度の下付をはじめとして、慶長十三年から元和二年(一六一六)にかけて天台・真言・新義真言・修験道(しゅげんどう)・曹洞・臨済・浄土・日蓮などの各宗に対し、諸宗諸本山法度を下した。寛文五年(一六六五)にも二つの諸宗法度を下した。法度は宗学の研究や修業を奨励し、本寺の末寺にたいする絶対的な優越性・各宗におよぶ朝廷権力の制圧・諸宗法式の厳守・新義の禁止・徒党の禁止・僧侶の服装や儀式について規定している。
 寺領・朱印地の下付がおこなわれた―慶長六年から寛文五年にかけて法度の下付と併行するようにおこなわれた。大名や旗本のように寺院は領主としての性格をもった。
 本末(ほんまつ)制度が確立をみた―幕府は寛永九年(一六三二)と元禄五年(一六九二)の二回、全国的な本末帳の作成をおこない、本山・末寺という寺格にもとづく重層的な寺院関係である本末制度ができあがった。本寺・本山が末寺にたいして絶対的な優位にたつようになった。
 檀家制度がうまれた―幕府のキリスト教禁教政策は、寛永十五年(一六三八)の島原の乱後いっそう強化されたが、寛永十七年幕府は宗門改役(しゅうもんあらためやく)をおいてキリシタンの発見と戸ごとの宗旨調査にあたらせた。宗門改(あらため)においては二つのことが実施された。寺請制(てらうけせい)と宗門改帳の作成である。この二つのことをかいして、各家単位に特定の寺院とむすびつくという中世以来の結合関係が檀家制度としてできあがった。

写真 宗門人別并五人組帳下書
(清名幸谷 中村昭家文書)
 
 新興宗門をうむ―代表的な新興宗門として黄檗宗(おおばくしゅう)の開創がある。明(みん)の禅僧隠元が来朝し寛文三年(一六六三)山城の宇治に万福寺をたて本山とした。また、中世いらいの時宗、融通念仏(ゆうずうねんぶつ)宗・普化(ふけ)宗が宗団の形成をすすめ宗派としてみとめられた。
 宗学が勃興する―幕府の政策に基づくところが大とされるが、各宗が中世以来の自己活動の基礎にたって幕府の政策に対応していった面もうかがえる。各地に檀林・学寮が開設された。天台宗では江戸の東叡山を中心に房総二国の三途(さんず)ノ台檀林(現長生郡長南町長福寿寺)などがおかれ、新義真言宗では豊山長谷寺の学寮・京都智積院(ちしゃくいん)の学寮を中心として地方に田舎檀林がひらかれた。浄土宗では、江戸の増上寺檀林のもとに関東一八檀林などがあった。浄土真宗では東本願寺の学寮・西本願寺の黌舎(こうしゃ)、専修寺派の勧学院があり、曹洞宗では永平寺・総持寺・黄檗宗の万福寺などの大寺に学寮・勧学寮・勧学院をおいた。日蓮宗では一致派に下総飯高寺檀林以下の関東六檀林(小西の正法寺檀林をふくむ)、京都六檀林の一二檀林、勝劣派に上総宮谷檀林以下の七檀林をかぞえた。
 宗論・新義異説の禁止―論争、とくに他宗との対論は秩序をみだすとして最も強く禁止された。日蓮宗のとる折伏(しゃくぶく)はきびしく禁じられた。宗学の研究においても論争をおこなって新義異説をたてることが禁じられた。しかし日蓮宗における不受不施の問題をはじめ、強義異説の問題がおこって幕府による処断がおこなわれる場合もあった。
 戒律・護法思想の興隆―儒学・国学・キリスト教にたいする仏教の立場からの主張―戒律の提唱、護法思想がとかれた。
 庶民に教(おしえ)をとく―庶民生活を意識し庶民に接して教をとくという動きが各宗に共通している。慈雲の「十善法語」、沢庵の「東海夜話」、白隠の「夜船閑話」、天桂の「渡世の船歌」などが主要な文献である。
 
 生活のなかの信仰
 二月十五日 涅槃会―釈迦入滅の日という旧二月十五日(現在三月十五日)に各寺院で行われる法会である。
 三月、九月 彼岸会―春分、秋分を中日とし、各寺院では彼岸会を修し読経法話、先祖の墓参りが行われる。
 四月八日  灌仏会―釈迦の誕生日といわれる旧四月八日、各寺院でその隆誕を祝して行う行事。
 七月十五日 盂蘭盆会―旧七月十三日から十六日(月遅れは八月十三日から十六日)までを盂蘭盆とし、死者の霊をまつる施餓鬼会、墓参、盆踊り、盆市、灯籠流しなどを行う。
 縁日―閻魔(七日・十六日)、薬師(八日・十六日)、妙見(十五日)、観音(十八日)、地蔵(二十四日)、不動(二十八日)、弘法(二十一日)、日蓮(十三日)。
 秘仏の開帳―居開帳・出開帳。
 参詣講―善光寺・成田不動・高野山など。
 観音巡礼―西国三三か所のほか坂東、秩父などの三三か所。
 このほか、ひそかにおこなわれた特殊な信仰の形態に秘事法門―かくし念仏、不受不施派などがあった。