禁教の強化―幕府は、はじめ布教貿易二元主義をとったが、キリスト教がひろまって農民統制に不安をあたえだすと、慶長十七年(一六一二)まず天領に禁教令がだされた。そして翌年にはこれを全国におよぼした。教会を破壊し宣教師や信徒を長崎に追い、慶長十九年になるとキリシタン大名高山右近や宣教師、信徒約三〇〇名をマカオおよびマニラに追放した。禁教の方針はひきつがれ、徹底させるため中国船以外の外国船の入港を平戸・長崎の二港にかぎった。寛永元年(一六二四)にはスペイン船の来航を禁じ、まもなく奉書船以外の日本船の海外渡航を禁じ、やがて日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁じた。また中国船の入港も平戸・長崎の二港だけとし、ポルトガル人を長崎の出島にうつした。
島原の乱と鎖国の完成―幕府はくりかえしキリシタン信徒を迫害した。このようなとき島原・天草地方の農民が領主の圧政とキリシタン弾圧に抗して一揆をおこした。寛永十四年(一六三七)~同十五年にいたる激しいたたかいであった。老中松平信綱と九州諸大名の大軍がこれを鎮圧した。乱後の禁教はますます強化され、寛永十六年(一六三九)ポルトガル人の来航が全面的に禁止され、寛永十八年には新教国オランダの商館も長崎の出島にうつされ鎖国が完成した。
隠れキリシタン―信徒の発見のために踏絵(ふみえ)のような強制もおこなわれたが、キリスト教の信仰は隠れキリシタンの人々によってひそかに守られていった。