日蓮宗でも、比叡山あるいは南都の寺々でまなぶ学僧が多かったが、天正のころ(十六世紀末)から天台宗の教育制度にならって学堂あるいは学室とよぶ施設をつくって教育にとりくむうごきがおこった。このような中世以来の自己活動と江戸幕府の宗教政策に対応したうごきが加わって京都と房総の上総や下総に学堂や学室を発展させた檀林が開校され、当町域においては小西檀林・宮谷檀林・細草檀林と三つもの檀林ができてながく活動を続けた。
小西檀林は、天正十八年(一五九〇)に正法寺七世日悟が学僧日祐をまねいて開校したことにはじまる。
宮谷檀林は本国寺一〇世日純が元和二年(一六一六)に二代将軍徳川秀忠の許可をえて開校した。
細草檀林は茂原鷲山寺(じゅせんじ)の学僧日達が寛永十九年(一六四二)に法雲山遠霑寺(おんでんじ)と号して檀林を開校したことにはじまった。
室町時代に日蓮宗が京都に進出し法華信仰がいきおいをうるとともに、宗内では教学をめぐる論争がさかんにおこなわれた。なかでも法華経にかんする一致と勝劣の争いが最大の論点をなした。法華経は、ふつう前半の一四章を迹門(しゃくもん)、後半の一四章を本門(ほんもん)とよんで二分する。このときに本門と迹門は等価値で、優劣深浅はないとするのが本迹一致(ほんしゃくいっち)(―一致派)である。これにたいして、本門がすぐれて迹門が劣るとするのが本勝迹劣(ほんしょうしゃくれつ)(―勝劣派)である。一致は保守的で現状肯定に傾きやすく、勝劣は変革的で現状打破の傾向を思想の性格としてもつといわれる。
小西檀林・宮谷檀林・細草檀林をふくめて日蓮宗の全檀林を一致・勝劣の立場で大別してしめすと次のようになる。
日蓮宗檀林 | |
一致派 関東八檀林 | |
飯高檀林 | ※小西檀林 |
中村檀林 | 水戸檀林 |
玉造檀林 | 南谷檀林 |
松崎檀林 | 西谷檀林 |
京都六檀林 | |
松ケ崎檀林 | 求法檀林 |
鷹ケ峰檀林 | 鶏冠井檀林 |
本山檀林 | 山科檀林 |
勝劣派 七檀林 | |
※宮谷檀林 | 沼田檀林 |
※細草檀林 | 三沢檀林 |
大亀谷檀林 | 小栗栖檀林 |
尼ケ崎檀林 | ※印は郷土の檀林 |
みてわかるように、小西檀林は一致派の檀林、宮谷檀林と細草檀林は勝劣派の檀林であった。
また、宗学の中心が京都と関東(具体的には上総や下総)にあったことがわかる。
檀林では、檀林長を能化(のうけ)(化主)とよび、教授にあたらず一山の監督にあたる者を一老(いちろう)あるいは伴頭(ばんとう)とよんだ。学徒は所化(しょけ)とよばれた。学徒は各地より参集した。はじめは新来とよばれた。他檀林より転入したものを横入といい、中途退檀ののち復学したものを還来といった。
小西檀林(図9)は惣門をはいって左右に堅高堂と風呂屋、右手の奥に教蔵堂と四つの学寮(議義室とおもわれる)がある。中門をはいると左右と左手はずっと奥まで所化寮(学徒の宿舎)がある。奥の正面に本行寺、右手の奥に徳性寺がある。すこしいった右手に鐘楼堂、題目堂、蓮華寺がある。左手が東金御殿の一部を移築した講堂、方丈・経蔵である。北の正面が本堂、本堂の右手に妙見堂、幽玄院がある。本堂わきの坂をのぼって西北の隅に鎮守堂がある。小西檀林は正法寺の本堂を中心に東西南北の谷にひろがっているようだ。
図9 寛政ごろの小西檀林略図『小西法縁史』
宮谷檀林(図10)の場合は地形上うまいぐあいに講堂を中心に東西南北の四つの谷に建物を展開させることができた。西谷には本堂、開山堂、経蔵、書院、方丈がある。東谷には文句講場、条箇講場、伴頭寮があり、南谷には玄義講場があった。その間に所化寮が配置されていった。寮舎は学徳すぐれたあるいは手腕ある有力な能化によっておこされそれぞれ法縁の学徒を収容した。各寮では入寮の学徒にたいして日常の給仕、信行、勉学等の指導をし寮舎相互、寮生相互でその優劣をきそわせ、寮出身の能化・伴頭がでることを誇りとした。寮舎は寮祖にちなんで○○師寮とか地名を冠して○州寮とよばれ、寮生となった学徒は○○谷指南の人、○○寮指南の人とよんで区別された。小西檀林では、藻原谷寮、江戸谷寮、伊豆谷寮の三つの流れができた。細草檀林は東西八〇余間、南北百余歩の寺域に学舎二〇余軒がたっていたという。
図10 寛政ごろの宮谷檀林略図(「宮谷檀林図」「宮谷懐古図」板倉巧尚家所蔵)
学科は日蓮宗各檀林とも原始天台の研究が中心で祖書の研究にいたるまでの修業期間は入檀より十三~十五年であった。法華玄義・法華文句・摩訶止観―三大部の研究がすすんだ。これは仏教学の立場にたつことによって宗学研究への自覚をうむことを目的としたものと考えられる。
小西檀林では春は二月~五月(この間を一夏(げ)という)、秋は八月~十一月に開講し、一夏九旬(九十日)の勉学であった。宮谷では春は四月~七月、秋は八月~十一月に開講した。
学科と教科書
一、名目部 西谷名目上下二巻
二、条箇部 名目条箇
三、集解部 天台四教儀集解上中下三巻
四、観心部 不二指要抄
五、玄義部 法華玄義一〇巻
六、文句部 法華文句一〇巻
七、止観部 摩訶止観
御書部 祖書録内外
学科の教授者とその分掌・期間
一、名目部〔初級〕 五老……使僧役をつかさどる(一夏)
二、条箇部〔次級〕 四老……掃除役をつかさどる(〃)
三、集解部〔三級〕 三老……飯台諸色吟味をつかさどる(〃)
四、指要部〔四級〕 二老……林内の普請をつかさどる(〃)
一老……大頭また伴頭ともよび教授にあたらず一山の監督役である(二夏)
五、玄義部〔五級〕 玄能……教授専務(一夏)
六、文句部〔六級〕 能化(化主・文能ともいう)……教授専務 上総以外の者は(一夏)
上総居住の者は(二夏)
七、止観部 教授なく独学研究
御書部
学科と講席と勤席
一、名目部 二夏 一夏八十席開講、百二十度以上勤席
二、条箇部 三夏 一夏四五席開講、百席以上勤席
三、集解部 三夏 一夏三二席開講、八十席以上勤席
四、観心部 三夏 一夏二五席開講、六十席以上勤席
五、玄義部 八夏 一夏十五席開講、四五席以上勤席
六、文句部 不定 一夏十二席開講、三六席以上勤席
七、止観部 不定 独学研究
御書部 不定
授業日を物読日(ものよみび)、授業に出席することを勤(きん)席、九〇日間を一夏(げ)、春と秋の中間の休講を夏間(げあい)といった。
檀林長である能化は講堂において法華文句を講義した。文句講義にあたっては当番が講堂の鍵を所持し半鐘をならして開講をしらせた。半鐘は第一回目が夜半に、第二回目が未明になり、第三回目に講義をはじめた。能化の出退にあたっては部頭がその居室に仕向した。出講をうながした部頭は講場を整理してまった。講壇にあがった能化は天台大師(の像)に自我偈を読誦のあと講義にうつるのがならわしであった。宮谷檀林の能化は本国寺へ輪番住職し上総居住の者は二夏、上総以外居住の者は一夏であった。
一老はぞくに伴頭とよんだ。一山の監督役で授業はやらない。
文句を終了したものよりえらばれた者が中座にすすんだ。中座は定員一八人で止観および天台の観心等の教儀の研究、録内録外の祖書の研究を兼学といって中座でおこなった。中座部には落着があり、理由がなく三夏懈怠する者をいい退林のことである。
進級は初級より玄能にいたるまでに三〇余年を経過し、玄能を四、五年つとめて能化にすすむという制度であった。