(2) 檀林の主な行事

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 檀林の最大行事は六月の夏末(げまち)と十一月の部転(ぶてん)であった。
 夏末は六月二日~四日までの三日間おこなわれる集解部学徒の初転法輪(仏教者として初めて説法をする儀式)のことである。毎年一回おこなわれ、学徒はこれに合格することによって僧としての資格をえたのである。説法は檀林教育において重視されたものである。説(法)僧は四月の八・九・十の三日間、各所属寮に集合して説教の儀式をならい十五・十六日の二日間儀式のさらいといわれる試験をされた。十三日・二十三日に月待という行事があり、説僧が御酒・香華を供養し月祭をおこない合格を祈願した。各谷で一団となって別々に修法した。二十七日・二十九日の夜、社参の行事があって鎮守八幡をはじめとして本堂、講堂・各寮のある谷の鎮守に参詣してのち、一同で門前に集合した。そこで説頭の訓戒があり蛇島不動(現東金市蛇島)にむかって法楽を奉じて社参した。各説僧は丸長提灯に火を点じておこなうのである。蛇島不動も檀林の鎮守であった。五月一日各説僧は伴頭寮へ出頭して説教の本をうけとった。そして説教本の各題号の題入を谷頭にとどけて、写本して修読した。玄義がこの教授にあたった。十日間に暗誦できない者は業因ありとして各谷にその衆あれば各説僧を会し祈禱する事もあった。十五日、十六日に浚茶会があった。谷内の人々は一所に会し玄義衆が説法のさらいをさせ、よいわるいを判定し不合格の者は禁足した。十九日各谷順に一所に会し、玄義以上集合して説僧の大浚があった。ふたたび合格できるかどうか試験をして不合格の者を禁足した。二十四日、二十五日は大途揃と称して説僧らは大講堂に会した。また説僧は説法の前後に谷内の玄義一同に酒肴をだし玄義の送迎には法衣を着し土下座の礼をとった。このとき文句が接待役をつとめた。納金の制もあって百疋を本山へ入寺金として、高座料として百疋、谷内鎮守へ二朱納入した。六月一日説僧の縁者から送付された赤飯が各縁故の寮および能化、伴頭ら列席の人々へ、また祝儀送付の者へくばられた。
 二日~四日まで夏末の大会がおこなわれ、玄頭(玄義部の部頭)はその主導となって一切の事件を処理した。本堂の荘厳は能化がこれを監督した。本堂には仏前番というのがあった。各寮から二名づつ出て二名で一組となって夜前・夜後および午前・午後と交替して仏前の事をおこなった。大会の執行には玄義が出席し説僧の着席が玄六頭の呼出しによってなされ、説法の講席に出る順番がまわってくると、能化の前に説教の本をおいて席につき退席のとき、それを受取ってかえる定めであった。暗誦の説法のできた説僧は儀式の中間に各寮の縁者、知人を訪問し、もう一回復誦して完了した。
 会式中の警備は夜廻りと目付の二役があった。これは文句および主座の役で文句は二役をかねる。主座は夜廻りのみであった。二組に分かれて夜前・夜後に本堂、講堂を巡回し、そのとき修了の説僧がその前後を警邏した。目付は門内各所をみまわった。休息所は文句講場とした。門内の営業は側頭(文句部の年長者四人)の取締りであった。
 
 檀林の各部在学の学徒の進級式はすべて部転(ぶてん)である。なかでも玄義(げんぎ)の部転が最も盛大で大部転とよばれた。古玄義(こげんぎ)が文句(もんく)(部)に昇進する儀式である。十一月の六日におこなわれた。とくに大部転といわれるのは延享三年(一七四六)宮谷伴頭七三世日瑞の時代にはじめられた灌頂水の儀式がおこなわれたからである。
 十一月四日玄義部転の内宴は玄義講場においてひらかれるのである。玄六頭が大衆の連名をよび着席させ古玄義は片手、新玄義は両手をついて着席する。伴頭は法楽して中座し、ただちに酒肴がでて手をあげることをゆるされ酒宴をひらく。しばらくして酒盃が二個だされ玄頭および二番の前にならべるや、玄頭いはく、二番と唱し順逆二度の盃を戴け云々と順次につげてゆく。この決盃の場合は大根オロシ一品が肴で文句が接待する。さらに伴頭が出席せんとすると玄頭は、只今(ただいま)伴頭出席せんとす失礼あるべからず云々と注意する。伴頭が着席すると、とくに参盃を一同にたまわる。これも順逆二度の盃にして最も厳粛であったという。内宴後一同各寮にかえりぎはに玄頭より不都合のないようにと注意をうけた。
 十一月六日玄頭五列および六頭は白衣となり紫縮面の襟巻および紫のタスキを着用する。他の玄義は白衣および白布の襟巻を着し伴頭寮の前に集合し、玄五列は各自、おごそかに手をくみあわせ伴頭寮の下に会する。文句一同は玄五列および六頭の保護者となり、大門、伴頭寮にゆくこと三回、そのうちに他の玄義も行列に加わる。講堂においてはまず伴頭をはじめ一同白衣一枚を着して座し、また拝殿の正面には大盤台が水をたたえて玄部をまっている。灌頂をさずける者は能化で伴頭および随従二名(文句)がつく。玄頭および六頭は文句に助けられ大衆の混雑のなかを七頭の誘導で石段をのぼり講堂にはいり、ここに灌頂がおこなわれ伴頭より順次に新入までことごとく能化の手によって灌頂をうける。式終了は午後三時半頃であった。あつまる大衆は数百人で境内はいっぱいであったという。