檀林には常時数百人の学徒をはじめとする人々がいて活動していた。
勉学は三大部(摩訶止観、法華文句、法華玄義)を中心とする天台学と、宗祖の遺文、宗義、宗史の研究であった。
小西檀林では日裕を初代の能化とし、日領、日寛、日堯、日透らの学僧が活躍した。宮谷檀林では日信を初代の能化とし、日乗、日英、日統、日受らが輩出して教学の伝統をうんだ。細草檀林では日達を初代の能化とし、日崇、日寛らを輩出した。
不受不施の論争、寛永不受論では小西檀林の能化日領が奥州相馬に配流された。寛文不受論では宮谷檀林の能化日英が日向に配流された。この事件は檀林をゆさぶる大きな出来事であった。
また、檀林の整備、事件後の檀林の復興につとめた能化たちもいる。
学徒や能化のうちには当町域出身の者もおり、宮谷檀林の創設にあたった日純は北之谷の竹内家の出身であることは一例である。
万人講とよぶ講の組織、雨乞いなどの檀林の行事、用水堀の開さく、詩文を通じての地方文人との交友、彫刻の技術を生かしての教化、得意とする説法を通じての教化等々、地域の人々と檀林のむすびつきはふかいものがある。
小西檀林の略図には門前拾四軒としるされているが、宮谷檀林、細草檀林にも門前が形成された。
小西檀林は明治六年(一八七三)に出火によって諸堂を失い、永い檀林の歴史に幕をおろした。細草檀林も明治初年に廃校した。ただ宮谷檀林のみは宮谷大学林と改称して活動をつづけた。明治三十三年七月廃校した。最後の林長は板垣日暎であった。