(1) 不受不施派の動向

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 大網白里地域の村々は、中世の土気酒井氏の改宗令以来、法華宗との結びつきが特別に強かった。慶長二年(一五九七)、常楽院日経は、七里法華が栄えた町域の富田村を中心に、不惜身命(ふしゃくしんみょう)(自ら身命を惜しまず)の精神をもって、熱心に法華宗の布教に努めた。そのころ、七里法華の信仰も弱まり、その信仰の停滞を嘆いた日経は、「念仏無間」など四つの格言を書いた折伏(しゃくぶく)の旗を携えて、大声で題目を唱えながら、在町村を布教して歩いた。そして、同年、お塚山(当町福俵仏島大網飛地)に一宇を建立し、その寺院を宝立山方墳寺(妙法山方墳寺とは別寺)と名づけ、寺院境内に五輪塔を一基造立した(窪田哲城『日什と弟子達』)。この五輪塔は、のち寛永四年(一六二七)に、時の代官三浦監物が幕府の命令で方墳寺を焼き払ったとき、監物によって近くに流れる四百尻川(現小中川)に打ち捨てられたとも、あるいは代官の手にかかることを恐れた信者によって土中に埋められたともいわれている。後年の享保十三年(一七二八)五月に行信(流島後、日進と改名)が掘り出して復元したと伝えられている。その後、度重なる受難により、再び土中に埋められた模様で、大正五年ごろ、南横川の田中源次郎氏によって掘り出され、次頁の写真のように、一部(火輪)が欠落するだけで、空輪・風輪は、南横川(田中明雄宅)に、水輪・地輪は、南飯塚(公民館敷地内)に、それぞれ現在でも小さな祠(ほこら)を建てて安置されている。
写真 五輪塔図(南横川 佐久間武家文書)
写真 五輪塔図(南横川 佐久間武家文書)
写真 空輪・風輪
写真 空輪・風輪
写真 水輪・地輪
写真 水輪・地輪

 こうした宗内の騒ぎを憂いながらも、日経は、両総方面で布教活動を続けた。慶長四年、日経は上洛し、本山妙満寺貫主(かんず)となって京都で折伏布教を開始した。また、家康から江戸城において浄土宗との間で宗論を行うよう命じられ、同十三年に日経は浄土宗僧侶と対論することになった。しかし、この宗論は、純宗教的な立場からの論争ではなく、自宗の本意を主張するため、他宗に対して論争破折する折伏という一方法をとる日蓮宗を強制的に敗北させることにより一切の宗論を禁止して、統一政権のなかにそれらを吸収してしまおうとする、家康の政治的な意図から設定されたものであった。奉行衆から事前に宿所で手荒い暴力を加えられた日経は、当日、対論の場では一言も発することができなかった。そのため、家康の逆麟(げきりん)に触れ、翌十四年、京都六条河原で、弟子五人とともに耳と鼻そぎの刑に処せられた。こうした厳しい迫害にも耐えた日経は、元和六年(一六二〇)十一月二十二日、三瀬(富山県婦中町)で六十一歳の生涯を閉じるまで、その後も強靭な精神力と篤い信仰心で布教活動を行った。日経は、遷化二年前の元和四年に、上総在住の信者一九人の願いにより、彼らに畳一畳ほどもある大曼陀羅を授与している。その一九人のなかに、富田村六人、(上)貝塚村、吉田村、木崎村各一人の名前がみえ、日経と郷土の結びつきの強さが窺える。
 日経が元和六年に越中で亡くなったころ、京都では日秀が、関東とくに町域では日耀(玉雲)が、さらに野田(現千葉市誉田)方面では日浄が、それぞれ日経の教えをうけた信者を統率し指導していた。日耀は、上総国長柄郡千沢村又兵衛の弟で、大沼田檀所で学問を修めたのち、宮谷檀林で勉学に励み、能化の位につき、山辺郡の小(お)塚原(当町福俵仏島大網飛地)を本拠に布教した。彼は、慧遠院といい、所化名を玉雲と称した。能化となったころ、加賀国で布教を行っていた日経を訪ねて弟子となった。以後、日経と同じように激しい折伏布教を展開したため、他の什門寺院から敬遠されるようになり、ついには、江戸伝馬町に護送され寛永四年(一六二七)六月一日(一説では同五年同月日)に獄死してしまったといわれる(「正師方由略記」)。そのころ、日耀は、方墳寺の住職であり、寛永四年の三浦監物の同寺破却焼き打ちによって捕われの身となっていたのである。

写真 お塚山