こうした宗内の騒ぎを憂いながらも、日経は、両総方面で布教活動を続けた。慶長四年、日経は上洛し、本山妙満寺貫主(かんず)となって京都で折伏布教を開始した。また、家康から江戸城において浄土宗との間で宗論を行うよう命じられ、同十三年に日経は浄土宗僧侶と対論することになった。しかし、この宗論は、純宗教的な立場からの論争ではなく、自宗の本意を主張するため、他宗に対して論争破折する折伏という一方法をとる日蓮宗を強制的に敗北させることにより一切の宗論を禁止して、統一政権のなかにそれらを吸収してしまおうとする、家康の政治的な意図から設定されたものであった。奉行衆から事前に宿所で手荒い暴力を加えられた日経は、当日、対論の場では一言も発することができなかった。そのため、家康の逆麟(げきりん)に触れ、翌十四年、京都六条河原で、弟子五人とともに耳と鼻そぎの刑に処せられた。こうした厳しい迫害にも耐えた日経は、元和六年(一六二〇)十一月二十二日、三瀬(富山県婦中町)で六十一歳の生涯を閉じるまで、その後も強靭な精神力と篤い信仰心で布教活動を行った。日経は、遷化二年前の元和四年に、上総在住の信者一九人の願いにより、彼らに畳一畳ほどもある大曼陀羅を授与している。その一九人のなかに、富田村六人、(上)貝塚村、吉田村、木崎村各一人の名前がみえ、日経と郷土の結びつきの強さが窺える。
日経が元和六年に越中で亡くなったころ、京都では日秀が、関東とくに町域では日耀(玉雲)が、さらに野田(現千葉市誉田)方面では日浄が、それぞれ日経の教えをうけた信者を統率し指導していた。日耀は、上総国長柄郡千沢村又兵衛の弟で、大沼田檀所で学問を修めたのち、宮谷檀林で勉学に励み、能化の位につき、山辺郡の小(お)塚原(当町福俵仏島大網飛地)を本拠に布教した。彼は、慧遠院といい、所化名を玉雲と称した。能化となったころ、加賀国で布教を行っていた日経を訪ねて弟子となった。以後、日経と同じように激しい折伏布教を展開したため、他の什門寺院から敬遠されるようになり、ついには、江戸伝馬町に護送され寛永四年(一六二七)六月一日(一説では同五年同月日)に獄死してしまったといわれる(「正師方由略記」)。そのころ、日耀は、方墳寺の住職であり、寛永四年の三浦監物の同寺破却焼き打ちによって捕われの身となっていたのである。
写真 お塚山