行信は、元禄十一年(一六九八)、山辺郡長国村で生まれた(現当主吉野秀夫家)。幼名は辰之助、のち八三郎と改め、成人して祖父の名次郎右衛門を名乗り、浪人後は行信、さらに、流島のあとは日進(浄源院、宝暦元年からは常源院)と称した。生家は代々農業を営み、祖父道寿の代から日什古正義を信奉し、日尚の教えに傾倒して、一家をあげての熱心な法華経信者となった。ところで、日経は、什門のなかでも幕府権力に与同(よどう)する諸寺への参詣を止めるように同士に呼びかけ、他方、強信(ごうしん)の在家の信者に対しては、導師の位を授けた。行信もそうした在家の強信者の一人で、日作から不受不施の立義(りゅうぎ)を伝授された。このような導師の位を認められた篤信の強信者たちによって、上総方面では、日経、日尚および彼らに続く僧侶の教義が広められた。ところが、度重なる法難迫害により、日経系の僧俗と信者は、地下に潜伏して、根強い布教活動を展開することを余儀なくされた。この地下宗教活動を「内信心」といい、信者は、表面上什門系(日什の宗派)の寺院の檀家を装い、内密で日経系の信仰を保ち続けた。「内信心」という呼び名のほかにも、信者たちは自分たちのことを「正義信心」、「本門信行人」、「日什古正義」、「本門日蓮聖人正法」などと呼び合った。また、仲間が隠密に集合して題目を唱えることを、「内証題目(講)」、「納戸(なんど)題目」、「小座の題目」などといった。
彼らは、母屋に仏壇を作り、別に納戸、天井裏などに仏壇を設け、日蓮、日什、日泰をはじめ、日経、日尚などの先師筆本尊をまつって、内証で信仰を続けた。のちには、母屋のほかに、「小座」といわれる家屋を建て、そこで題目を唱和するようになった。行信の生家である長国の吉野家では、大正十年(一九二一)ごろまで、「小座」がそのまま保存されていたといわれる。行信は、二十九歳のとき、居宅のうしろに本門正義の「小座」を建て、開眼法要を執行した。「小座」は、「内信心」の信仰の場であり、吉野家の場合は、特別各地の「小座」の本拠道場としての性格を有していた。
行信の父親も信仰上の理由から牢人の身となり、行信をはじめ一家をあげて、日経系の宗義の布教に情熱を傾け、近在の人たちに入信を勧めるとともに、信者を組織化していった。その過程で法義の別かれる近くの法華宗寺院と対立が生じ、また同じ日経系でも西方(野田)の信者を折伏したため、多くの村人からも強い反発をかった。対抗する諸寺院は、行信の信徒を「新門徒」、「不受不施派の怪しき宗法」などと呼んで非難した。それでも、享保十五年(一七三〇)ごろには、「四判」と呼称される強信の仲間ができた。この「四判」と協力していままで以上に布教活動を充実させて行ったため、その信者はさらに増えていった。しかし、元文二年(一七三七)八月二十一日、長柄郡芝名村(現茂原市)の清左衛門の家で題目講を執行し、その折、依頼により行信が導師を勤めて法義を説いていると、清左衛門の檀那寺である芝名村蓮華寺日要が、これを聞きつけて咎めた。このことを発端に、翌三年三月、行信は奉行所に訴えられ、寺社奉行大岡越前守は、三月九日に、この訴状を取り上げることを申し渡し、当事者で対決するよう命じた。
取り調べの間、行信は拘束されることになり、三月二十六日に第一回目の訊問が開かれ、以後、長い辛苦の獄中生活が始まった。一〇回もの審議と、八〇人以上にも及ぶ関係者への取り調べが行われたこの裁判も、元文四年四月十三日に決着し、行信には、「その方御停止の不受不施を内信心し、大勢をさわがし、その上、改宗せざる不届によって遠嶋(おんとう)仰せつくる、牢に帰って出船をまて」という裁決が下された。九月二十七日に船上の人となった行信は、十月一日に日逞が流された伊豆大島に到着し、そこで六日まで逗留したのち、十五日に流島先の三宅島伊カ谷港に着いた。三宅島での生活は、教養人ということで比較的自由な行動が許された模様で、そのことは、三宅島の日進から送られた教義書や書状が、出身地の長国村周辺に居住する信者の元に多数届けられていることからも窺える。そのうち、南富田村七兵衛へ宛てた書類に「浄源院御書(写)」(嘉須利登家文書)と題するものがあり、日進の教義や三宅島での生活振りを垣間みることができる興味深い史料である。
写真 日進曼陀羅
(南横川 佐久間武家文書)
日進は、宝暦九年(一七五九)から「吾が俗家子孫へ伝ふる者也」と過去帳を書き始め、四月中旬に書き終えている。その過去帳には、約三〇か村の諸霊二一五〇余が記帳され、地域別に諸霊数の十傑を挙げると、吉井三七六、富田二三四、横川一七五、太田一四一、長国一三六、弓渡一三二、桂六七、貝塚六五、木崎五九、飯塚五二となり、これらの戒名数は、概ね信者数に比例すると考えられることから、町域の村々と日進の結びつきの強さがここでも確認される。しかし、在家でありながら、自誓受戒して出家し、日経系の宗義を広範囲にわたって布教した日進も、明和四年(一七六七)、一度もなつかしい郷土の土を踏むことなく、在島二十八年の波乱万丈の人生に終止符をうった。その教えは、以後も弟子や在地の信者にうけ継がれ、寛政三年(一七九一)には、再び地下の宗教活動が発覚して数人の信者が処罰された(桂山 島田良吉家文書ほか)が、隠れキリシタン弾圧にもまさるこの幕府の執拗な探索と容赦のない厳罰にもかかわらず、在地の多くの信者たちは、その後も長く「内信心」をもち続けた。