山崎闇斎の門人たちが各地に門戸を張ったのは寛文から享保の間(一六六一~一七三六)であった。それは急に興りたつという印象をあたえたうごきであった。
闇斎門下の三傑のひとり佐藤直方の高弟で稲葉黙斎の父、迂斎(うさい)が仕官に応じたのもちょうどこの間のことであった。
正徳五年(一七一五)は有名な長崎新令(海舶互市新例を定め、金銀の流出を防ぐ)がだされた年である。
好学できこえた肥前唐津藩主土井利実が藩校盈科(えいか)堂を創設して稲葉迂斎をまねいて儒官としたのもちょうどこの年の出来事である。迂斎はこのとき三十二歳であった。いらい、利実・利延・利里と三代に仕え、しばしば献言して藩政に影響をあたえる武士知識人として活動し、やがて二〇〇石を給されるにいたった。土井氏の藩政が善政としてうけとめられた一端は迂斎の力にあずかるところがあるであろう。
迂斎は名を正義、号して迂斎といった。そのはじめは伊予の豪族越知氏であるという。それから分れて河野氏となり、六代良通のとき美濃稲葉山の城を領してこのとき稲葉氏を名のった。後裔の山本正則は下総佐倉藩主堀田氏に仕え、まもなく同藩大番(おおばん)与力鈴木政重の女婿となり鈴木氏と称した。貞享元年(一六八四)、この政則の第三子として出生したのが正義、すなわち迂斎である。享保六年(一七二一)の冬のころ、正則の再三の願いが家長に認められ、稲葉氏の本姓への復帰がかなえられたのだという(竹林貫一編 『漢学者傳記集成』)。
迂斎は、はじめ闇斎学派の浅見絅斎(けいさい)の門人に指導をうけ、ついで佐藤直方に師事して、野田剛斎、永井隠求(おんきゅう)とならんで三高弟のひとりとなった。またのちになって三宅尚斎・浅見絅斎の講義にも出席できたので闇斎門下の三傑に学んだひとりであった。このようなことから迂斎は三傑なきあと闇斎学派の長老としておもきをなした。
黙斎が江戸に生まれた享保十七年(一七三二)といえば八代将軍吉宗の享保改革が推し進められていたさなかである。このころ、迂斎は江戸日本橋浜町に住居し、ときに藩主とともに国元の唐津に往復することがあった。また、農民から武士・大名にいたる門人があって、家塾の会日には講義をし、また進講をした。五月、吉宗は尾張藩主徳川宗春の奢侈を譴責(けんせき)に処して改革の徹底を期した。
秋にはいると山陽・南海・西海・畿内地方に蝗害が発生し、これらの地は大飢饉となった。十一月、迂斎に第二子が出生した。兄は名を正直、廓斎と号したが、この弟は名を正信、のちに黙斎と号した。
翌享保十八年、米価は江戸でも暴騰し、江戸最初の打ちこわしが米問屋高間(たかま)伝兵衛宅を襲撃して世間をおどろかせた。
黙斎も闇斎学を学んでその継承者となった。十八世紀前半から後半がその生涯である。五十歳まで、生涯の大部分を江戸で過し、晩年の十八年間は上総の清名幸谷(せいなこうや)村に移り住んで孤松庵に暮らした。ほぼ同じ時代を生きた著名な学者としては、十歳年長であるが九州の国東(くにさき)半島の富永村に生れ、生涯おなじ農村にすんだ自然哲学者の三浦梅園(一七二三~一七八九)、伊勢松坂で医を業とするかたわら研究と教育にあたった国学者の本居宣長(一七三〇~一八〇一)、江戸で「解体新書」の翻訳にあたった蘭学者の杉田玄白(一七三三~一八一七)などをあげることができる。
この間の幕政をみるならば、八代将軍吉宗の享保の改革・老中田沼意次(おきつぐ)が権勢をにぎった田沼時代。このあとは老中松平定信の寛政の改革が行われるなど政治が転換をせまられた時代であった。
黙斎は「余幼ヨリ膝下ニ学ビ」(『姫嶌講義』以下『講義』と略す。山崎道夫注の内田遠湖本による)と幼時を回想しているが、十五歳までは迂斎の膝下にあって成長した。この頃の行動を伝記からうかがうと、まず学問への関心を早くから示したことが知られる。また武家の若者たちと封建倫理に反抗する遊俠の徒のようにふるまって痛快がったらしいこと、あるときは博飲して享楽的な風潮を追って行動するなど彼も時代の子であった。武家五〇万、町方五〇万、一〇〇万都市大江戸の社会を背景にした若者の行動としてよみとれる。
延享四年(一七四七)、黙斎十六歳、父の言葉にしたがって本所石原町にすむ野田剛斎の門をたたいた。本所は隅田川をはさんで浜町の対岸である。こうして父の同門であった剛斎に師事した。「長ジテ剛斎先生ノ門ニ及ビ、父師ノ教ヘヲ承ク。至愚極陋ノ資ヲ以スト雖モ、漸ク聖学ノ要ヲ窺ヒ、竊カニ此ノ道ヲ以テ念ト為セリ。実ニ教ヘノ然ラシメルナリ」(『講義』)。闇斎学を本格的に学んでいった時期といえよう。師となった剛斎ときに五十七歳、「最モ賢ナル故ニ、之レヲ師トス」(『処士越復伝』)と黙斎は記している。
迂斎の門下を代表するとされるのは黙斎以外に村士玉水、山宮雪楼がいる。村士行蔵(玉水のこと)が迂斎の門をたたいたのは寛延二年(一七四九)である。このとき行蔵二十一歳、黙斎は十八歳であった。たちまち親交をむすんだ若者たちは正義高談にあけくれて、学の進歩著しいものがあったという。これから三年が過ぎた宝暦二年(一七五二)、黙斎二十一歳、父迂斎にかわって上総をおとずれ約二か月滞在した。清名幸谷村の鵜沢長右衛門・その子の喜内・幸七郎兄弟の日頃のまねきにこたえたものである。清名幸谷村では「近思録」を講義し、姫島村の鈴木荘内の姫島学舎では上総八子(かずさはっし)とのちに敬称される門流八人の人々を前に、佐藤直方の四部作のひとつ、「道学標的」をとりあげた。「姫嶌講義」として残る筆録はこのときのものである。黙斎は八人に、迂斎の墨蹟を贈って激励した。
宝暦七年(一七五七)、黙斎は父のもとを離れて若松町に住居をさだめ独立した。宝暦十年(一七六〇)、母を四年前に失った黙斎は、こんどは父の死去にあった。迂斎七十六歳、闇斎学派の長老としておもきをなした長命な生涯であった。
宝暦十三年(一七六三)、黙斎三十二歳、向島に住居をうつし剃髪して幽居の生活にはいる。「壮歳ヨリ不惑ニ至リ、市中及ビ墨水ニ隠ル」(林潜斎『黙斎先生伝』)と伝えられる時期であり、次の五言の詩が残されている。
牛島幽居裏 牛島(向島)幽居の裏
独笑市朝喧 独り笑う市朝の喧すしきを
動作多簡傲 動作 簡傲(かんごう)多く
心志少陂偏 心志 陂偏(はへん)少し
朝臨墨水流 朝に墨水の流れに臨み
暮望筑波山 暮れて筑波山を望む
山水終古在 山水 終古在り
造物去不還 造物去って還らず
玄妙自識取 玄妙自ら識取するも
昊天本無言 昊天 もと言なし
(石井周庵『黙斎小伝』)
この時期の黙斎について注目すべき事はその編纂の仕事である。佐藤直方、野田剛斎、唐崎彦明、父迂斎ら四人のひとびとのものである。書名をしめせば左記のごとくである。
佐藤直方については「韞蔵録(おんぞうろく)」十六巻。「拾遺」三十巻。「続拾遺」六巻。「四編」五巻。野田剛斎については「石原学談」四巻。唐崎彦明については「竹原遺稿」三巻。父迂斎については「先人文集」十巻。「続集」四巻。「別集」一巻。「和書集」五巻。「読和書集」五巻。「雑稿」三巻。「学話」二十八巻。「附録」十六巻などである。
この編纂の仕事は、山崎闇斎―佐藤直方―稲葉迂斎と続く闇斎学派の学統の後継者としての自己を黙斎が明確にしえた仕事であったとおもわれる。闇斎は日本にあって、朱子の思想を文集語類の精読検討からはじめて純粋徹底的にとらえ、朱子の真意に復帰しようとし画期的な業績をあげたひとである。このような闇斎の学を敷衍し拡充し委細をつくして大成にもっていったのは佐藤直方らの三傑であった。この学の大綱をなすのは、性理の原理論、敬義の論、大義名分論であり、その純粋性をもとめた。三傑より以後は忠実な継承であったといわれている。
明和四年(一七六七)田沼意次側用人となって権勢をにぎり田沼時代はじまる。
明和八年(一七七一)伊勢おかげ参り流行する。
安永元年(一七七二)黙斎四十一歳、三月京都への旅にでる。従者一人、東海道を西へ、この旅は五か月におよぶ。藩主に随行して京都に滞在中であった古河藩に仕える兄の廓斎をたよった。父迂斎のあと、兄の廓斎が藩主土井氏のもとにあったからである。
この旅で三宅尚斎の高弟で女婿でもあった闇斎学派の長老、七十四歳の久米訂斎をたずねたのは大きな収穫であった。また、先師の墓にもうでた―黒谷の金戒光明寺にある山崎闇斎の墓、新黒谷紫雲山の三宅尚斎の墓、鳥辺山延年寺墓地の浅見絅斎の墓。現今の京都とはちがう、花の田舎とよばれた京都を探勝し楽しんだ。帰途に伊勢参宮をはたす。安永五年(一七七六)、再び京都に旅する。黙斎の生涯で遠隔の地への旅はこの二度の京都旅行だけである。意義ある旅であったことは想像に難くない。闇斎の晩年における神道への傾倒ということもあり黙斎にとって伊勢参宮も大きな意義をもつものであった。
安永四年(一七七五)、黙斎四十四歳、越後新発田藩主溝口直養(なおやす)(号は浩軒、一七三六~一七九七)より月俸をうける。深川に移って住居する。
直養は闇斎学を藩学とし、稲葉迂斎・黙斎の父子に学んでおり、唐津藩主土井氏とともに、稲葉父子との関係が深い大名である。窮乏した財政の再建、北越における最初の藩校道学堂、医学館の創設。領民への施策において善政の多かったとされる藩主である。為政者の立場から闇斎学の精神を実用に生かそうと努力した大名のひとりである。
他に黙斎が進講した大名に館林藩主松平氏、土浦藩主土屋氏、大洲藩主加藤氏、丸亀藩主京極氏などがある。
安永七年(一七七八)、兄廓斎の死去にあう。
ここで安永九年(一七八〇)ごろ、黙斎が清名幸谷村の鵜沢兄弟(喜内・幸七郎)にあてた書翰をもとにその江戸生活の周辺をまとめてみよう(鵜沢志津子家文書『東金市史』史料篇)。
黙斎の生活費は、手持金六〇両を貸した利金六両、溝口氏からの月俸、門人の謝礼によってまかなわれている。彼は自分の生活は一日暮らしだという。また、月俸をことわってしまう以上江戸では暮らしかねるともいう。中間一人をおいている。
この様な黙斎の江戸における生活の窮乏が東金・清名幸谷附近の土地の見立てを依頼することになった。
親類ども承知のうえ貴村へ住居つかまつりたく候
というような鵜沢氏への文面となり、清名幸谷移住が決心される。
文面にみえる食品―酒、味噌、ささげ、梅干し、シイタケ、エノキタケをおくられた礼をのべている。
健康法として灸を木綿屋の老婆にたのんですえてもらっている。
江戸名所の見物―上野、日暮里辺や亀戸の羅漢寺辺に従者一人をつれて散策する。あと王子の飛鳥山、駒込の染井見物が残っていると記している。
幸七郎の出府について―六十歳をこえ、老境遊歴御楽しみごもっともと記し、道中は馬より籠がよろしいとすすめている。
喜内の次男七蔵、幸七郎の次男民治と三男長蔵の勉学、画業の修行の様子をそれぞれの父親たちに報じている。
七蔵の出府しての勉学について―先々月中の書に申し候通り、下地これなく出府候ては教えの仕方も御座なく候。翁(喜内)も令弟(幸七郎)も学者の事に候えば、其方にて教訓、そのうえで出府がしかるべく候と苦言を呈している。また、七少年(七蔵)をしたがえて上野日暮里に一度、亀戸羅漢寺に一度でかけた。七少年(七蔵)勤学つつがなく候としるす。
民蔵について―民児こあんじなられ候よしごもっともに候えども、これもさして御気遣のことはこれあるまじく候。とかく専一に絵けいこ熱心にて御座候の間……放蕩の気遣などは当分見え申さず候……。兄弟仲のよいこと、絵は上達まちがいないとしるしている。
長蔵について―長児いよいよすこやかにござ候。とかく文字の力出来かね候。むりにもいたしかたなきものゆえ、文字は第二段、とかく日用実行小学にあいそむかざる様にと仕込申候。……血気の養いのため遠出をさせていることをしるす。
民蔵は浅草に住む町絵師の高崇谷(こうすうこく)のもとで画業を学び、のち養子となって高崇渓と名のった。
長蔵は黙斎の家に寄寓して闇斎学を学んでいた。のちに鈴木恭節と名のって館林藩松平氏の儒官となった。
また自身のことをのべて―拙老も五十になり申候。全然たるもとの黙阿弥とご一笑くださるべく候。また、お互に免れ難き死期近寄り申し候。少しも了会し得れば、終身の負債をつぐなうに候などと記す。
安永九年十二月のものに、新発田藩主溝口氏の月俸を辞退したこと。このことによって衰晩これにて又一格心儘の境涯になったこと。当年の暮はまづ越年、春はその里(清名幸谷村のこと)へ住居と心掛そうらえども、一寸先の事は黒淬々(こくさいさい)に候とみえる。
黙斎が江戸での生活に終止符をうち、上総清名幸谷村に移り住んだのは天明元年(一七八一)八月のはじめである。黙斎五十歳(知命の歳)であった。