黙斎は「彼ノ道学ヲ闡明(せんめい)シ、異教ヲ排斥シ後学ヲシテ依帰スル所ヲ知ラシムル、此ニアラズシテ、ハタ何ニゾ在ンヤ」「吾学由来準的有リ以テ聖人ニ至ルノ学ナリ」「天に対シテ聖人ニナリタキト望アル人ハ、上ハ天子、中ハ諸侯卿士、下ハ農工商、道学ヲシラズシテ、何ノ法術アラン。故ニ、道学ハ聖トナルノ学ニシテ、学ブ者ノ目当ナリ」(『講義』)という。
そして「タダ、四書・小学・近思録ノ三書ヲグルグル読メバ、ソノ中自深意出テ、他ニ求ルニ及ズ」(『講義』)と。
朱子の真説をあきらかにすれば、これに加える何物もないと説く。
黙斎はその学をとくに道学をもって自ら任じていたひとである。
迂斎の上総における門人について、黙斎は「顧(おもう)ラク上総諸生ノ学タルヤ、酒井氏ニ始テ和田生ニ成リ、爾後篤ク吾大人ヲ信ジ勉々輟マズ、以テ今ニ至ル、然ルニ大人ニ従ヒ其ノ直指面命ナル者僅カニ八人」(『講義』)であったとしるしている。
上総における闇斎学が「酒井氏ニ始テ和田生ニ成ル」とはどのようないきさつをいうのであろう。
享保十三年(一七二八)成東村で成東大橋の掛け替え工事がおこなわれた。橋は幕府直轄であったため工事にさいして幕府代官の手代酒井脩敬(前出の佐藤直方の門人であった)が派遣され公正な施政をもって監督にあたり、関係した農民たちがその人柄に敬意をしめすということがあった。そのおりのこと、酒井は成東の和田儀丹、姫島の鈴木荘内と学問についての話をかわしたことがあったが、酒井はその志をくんで二人が迂斎の門に学べるように労をとってやったのである。
闇斎学派(図11)の朱子学が上総の九十九里の浜平野の農村に根をおろすきっかけはおとずれたのである。こうして上総道学が生まれることになった。しかし、迂斎時代の門人といえる者は前記のように八人にすぎなかった。姫島の鈴木荘内、清名幸谷の鵜沢幸七郎、片貝の布留川弥右衛門、折戸の鈴木平右衛門、早船の平山安左衛門、小松の安井半十郎、東金の桜木清十郎、成東の安井武兵衛である。これを上総八子という。
図11 崎門学派系譜
迂斎が機縁となった上総道学は、晩年の黙斎が清名幸谷村に移り住むことによって本格的に根をおろしたといえる。
江戸より移った黙斎は、はじめ鵜沢家に寓居し、四年後に同家からほど近い三木の荘に孤松庵をたて住居した。周辺の景観をこよなく愛して十四年の歳月をここでおくることになり『孤松全稿』五十巻、附録二巻。『清谷全話』百五十巻の主著がうまれ、多くの農民が門人として学んだ。
写真 孤松全稿(清名幸谷 鵜沢志津子家文書)
当町域における黙斎門人としては『姫嶌講義』で前出した清名幸谷村の鵜沢幸七郎とその一族をあげることができる。
そして、他の一人は南飯塚村の富塚主静である。
はじめに鵜沢氏に焦点をあわせてみよう。宝暦六年(一七五六)五月の清名幸谷村の『人別御改帳之控』によれば「長右衛門、女房、子喜内、娘留以、孫藤次郎」と下男一一人(家族もち二人)、下女一〇人が記されている。長右衛門は喜内・幸七郎兄弟の父で、名主をつとめており、喜内は父と同居である。また「幸七郎、子倉之助、娘とき」と下男三人、下女六人の名が独立して記されている。
ついで九年後の明和二年(一七六五)六月の『宗門御改帳之控』には「長右衛門、女房、子喜内、嫁みよ、娘るい、孫七蔵、徳重郎」と下男一二人、下女九人の名がみえる。長右衛門方では孫藤次郎の名がきえて孫七蔵、徳重郎があらたな家族となった。「幸七郎、女房、子倉之助、二男民之助、三男仙蔵、四男菊二」と下男五人、下女五人の名がみえる。幸七郎方では民之助、仙蔵、菊二の三人があらたにみえる。
鵜沢家はいつとはわからないけれども、いわゆる手習読書の師をもつ農民であった。長右衛門、喜内、幸七郎父子のころは富豪農家であり名主をつとめており、農村社会におけるこのような立場が、成東大橋の一件を知ったことをきっかけとして、幸七郎をはじめ父子ともども迂斎の門に投じ、思想的なよりどころを得たといえよう。
やがて父子は迂斎の子黙斎とも親しい関係をうむにいたり、ついに晩年の黙斎がたよるところとなった。上総道学という地方文化の振興に鵜沢父子がはたした役割は大きい。
農民が苗字を名乗るうごきは享保ごろからさかんとなり、幕府は、由緒があるか、免許なくては相成らずとしたが、長右衛門は鵜沢容斎と号し、喜内は由斎、幸七郎は近義といった。黙斎書翰(前出)の一節に「翁(喜内)も令弟(幸七郎)も学者の事に候へば」とみえ、二人とも農民知識人であることを自負したと思われる(図12)。
図12 鵜沢家系図
次は安永九年(一七八〇)ごろ黙斎から喜内宛の一節である(前出)。
「貴翁(喜内)小学四書近思熟復なされ候由、よって朝に道を聞くの的法申し進め候ように仰せ下され承り知る、しかし、老境さらに此三書に心を潜め候新意、すなわち是れ朝に道をきけば夕に死すとも可なりの消息。別に言説のしめす者あらず。御互に免れ難き死期近寄り申し候。少しも了会し得れば、終身の負債をつぐなうに候。……すなわち談じ仰せこされ候事、貴翁ならでは其辺にあるまじく候。時日冷気催し候。御軽健めで度御自愛専一に候」
親交と喜内の日頃のとりくみを具体的にうかがわせるものである。
長右衛門は喜内・幸七郎兄弟を農民知識人として育てあげており、喜内は跡継の七蔵を黙斎のもとにしばしば出府させて学ばせ、大江戸の文化にたいする眼も開らかせている。幸七郎は二男民治(はじめ民之助か)と三男長蔵(はじめ仙蔵か)を出府させ、民治は浅草の町絵師高崇谷(こうすうこく)の内弟子とし、長蔵は黙斎の内弟子として学ばせ、それぞれ絵師高崇渓(崇谷の養子となる)、闇斎学派の儒学者鈴木恭節として独立させた。
次に南飯塚村の富塚氏についてみよう。
富塚家の八代は名を主一、惺斎と号した。十歳のころ母を失ってまもなく、北之幸谷村(東金市)の黙斎門人大木丹二(忠篤と号す)に師事する。十四歳の歳暮に師家よりかえり農事につく。また医を業とした(医学を誰れに学んだかは不明)。この惺斎によって天保十五年(一八四四、この年十二月に弘化と改元)正月八日になったのが『富塚先祖之記』『富塚五代六代七代系譜』という二つの記録である(図13)。
図13 富塚家系図
これによれば、一族は享保年間には手習読書の師をもつ農民であり、浄蓮は入会秣場をめぐる争論でたびたび村を有利に導く活躍をし、近村によく知られた人物であった。俗名は治郎右衛門といった。宝暦十年(一七六〇)三月に八十歳で没した。
六代の正誠は大網村浜宿に居住した医生黒田円安を手習読書の師とした。そして黙斎門人、上総八子のうち、東金の桜木清十郎(誾斎と号す)姫島の鈴木荘内(養察と号す)老人を友として道学を研究したという。惺斎は正誠の人柄を「行実篤信無欲 君子之風アリト、斎 家業 守隣 人 故ニ里人威服セシヨシ」と記している。
七代の主静は黙斎の門に学んだひとである。惺斎は「聞二道学之大義一修レ身 斉レ家郷里威服ス」といっている。天保五年(一八三四)一月に八十一歳で没した。天保四年の主静の疾病就褥から葬送にいたる始終を記録したのが惺斎の筆による「日誌」である。
また天保十二年(一八四一)九月になる『家政行事』は主静の原稿を惺斎が書写したとみられるもので、正月より十二月に至る行事と四季通用の家政行事を仔細にしるした貴重な農家記録である。
同家にいま残る道学関係のテキストとしては『童蒙則』(筆写本)、『三宅尚斎、佐藤直方先生講義書』(筆写本)、『迂斎先生学話』巻之三、巻之四、巻之五、巻之六(筆写本)などがある。
ここでは父子三代にわたって道学が学ばれ、ことに主静は黙斎の教えを直接うけた人で家政に村政に力量を発揮した人であった。また惺斎という識字能力ゆたかな人が出たことによって『家政行事』などが書写され、祖孫継承して伝えられることとなったのも歴史的連続性を重んじる道学の雰囲気を感じさせるものがある。
天明八年(一七八八)、田沼時代が終って、老中松平定信の改革がはじまっていた。
この頃、上総における闇斎学も、黙斎の清名幸谷村の定住によって上総八子の道学時代を終えて新しい段階をむかえた。それは、黙斎を核として農民を主たるにない手として上総の地方文化として結実したことである。当町域における鵜沢氏や富塚氏にみる父子三代の活動でも道学を学んだ農民が文化の創造者となる姿を如実にしめして興味つきない。
上総道学の人々がとくに親しく座右にしたと思われもし、またいま学風を慕う人々に読みかえされているものに『姫嶌講義』(前出)、『冬至文』(日本思想大系31。 梅沢思斎『直方先生冬至文』)、『農家今川状』(孤松全稿)などがある。『姫嶌講義』は前出したので、『冬至文』と『農家今川状』を紹介してみよう。
「冬至文」は享保元年(一七一六)佐藤直方六十七歳の冬至の日に二三〇字の文を草して前出の稲葉迂斎、野田剛斎、永井隠求の三高弟にしめしたものである。
道ノ廃レテ行ハレザル猶ホ擔物ノ地上ニ捨置クガ如シ。若シ其人其時ニ出ルコト有ラバ則チ之ヲ任ジテ永ク地ニ墜チザラシム。今聖学ヲ務ムル者ハ乃チ擔夫ナリ。俗学ノ徒ハ則チ路中ノ遊手ノミ。何ンゾ道ノ任ヲ望ムニ足ランヤ。
朝鮮ノ李退渓ノ後、此道ヲ負荷セント欲スル者、吾未ダ其人ヲ聞カザルナリ。中庸ノ序ニ所謂吾ガ道ノ寄ル所、言語文字ノ間ニ越ズトハ正ニ此ヲ謂フナリ。
我ガ邦古ヘヨリ今ニ至ルマデ此道ニ任ゼント欲スル者幾人ゾヤ。二三子聖学ニ志スコト有ルカ。無キカ。若シ果シテ其志アラバ則チ脊梁骨ヲ竪立シ以テ孔孟ヲ学ブヲ願フベシ。曽子云ハズヤ「士ハ以テ弘毅ナラズンバアルベカラズ。任重ウシテ道遠シ。仁以テ己ガ任ト爲ス。亦重カラズヤ。死シテ後ヤム、亦遠フカラズヤ」と。豈悠々徘徊歳月ヲ終ヘ夫ノ遊手浮浪ノ徒ト伯仲ヲ為サンヤ。
享保丙申冬至ノ日直方之ヲ書シ、鈴木正義野田徳勝永井行達ニ與ヘテ以テ其志ヲ励マスト云フ。(梅沢思斎『直方先生冬至文』の訓読による。)
一陽来福にからめて道学の隆盛を激励期待をした一文である。上総においては黙斎の天明六年(一七八六)の『冬至文』講義が先例となって永く受け継がれることになった。黙斎が没してからは門人たちによって冬至会がおこされた。これは毎年の冬至の日に会して『冬至文』を輪講し、これにかんする学談や先輩の遺事などを語りあい励みとしたものである。
『農家今川状』(孤松全稿)は武家の今川氏の家法にならう形式をとって序文と二二か条の条文と付属の文章よりなり、農民に生活の心構えを教えているものである。
一 鋤鍬ヲ執ラズシテ、農家ハ終ニ繁昌スルヲ得ザル事。
一 雑談寄合ヒヲ好ムハ、無益ニ夜ヲ深ウシ、朝寝ヲ楽シム事。
一 瑣細ノ理屈ヲ以ツテ勘忍ヲ為サズ、我儘ヲ行ハザル事。
一 大法ニ曽ツテ通達セザレバ、己ガ物好キ贔屓(ひいき)ニ任カセ、沙汰致ス事。
一 水呑百姓ヲ軽シメ、小作人ヲ貪リ、栄花ヲ極ムベカラザル事、茶湯風流無用ノ遊芸。
一 先祖ノ遠忌日、精進専一ニシ、乱舞宴楽停止ノ事。
一 地頭先祖父母ノ重恩、毎日存ジ出シ、忘却スベカラザル事。
一 公用ヲ厭ヒ、私用ヲ専ラトシ、世間ヲ憚ラザル働キノ事。
一 村内ノ善悪ヲ弁(わきま)ヘズ、軽々シク批判スベカラザル事。
一 家々能ク組下召使ノ働キヲ知ル。地頭モ亦同然タルベキ事。油断有ルベカラザルモノナリ。
一 金銀ノ不調法ヲ取扱ヒ、之ニヨツテ、我意ヲ募ル事。
一 百姓ノ分限ヲ知ラズ、武家ノ風ヲ効(なら)ヒテ分ニ過ギ、或ルヒハ、水呑百姓ニ対シテハ、却(かえ)ツテ万事不足ノ事。
一 目上ノ人ヲ嫌ヒ、手下ノ諂(へつら)フ輩ヲ愛シ、非分ノ取拵ヘノ事。
一 酒宴遊興諸勝負物見狂言浄瑠璃小歌三味線ニ長ジ、家職ヲ忘レ、家法ヲ壊(やぶ)ル事。
一 己レノ利根ニ迷ヒ、学問芸術ニ傲リ、万端ニ就キ他人ヲ嘲ル事。
一 人来ル時、虚病ヲ構ヘ対面セズ、或ヒハ久シク待タセ置キ、并ニ来使ノ返書遅滞シ、使ノ退屈ヲ思ハザル事。
一 独楽ヲ好ミ、人に施サズ、米穀倉ニ積メドモ、親類郷党ノ求メニ貸サズ、仁心無キ事。
一 家具衣装己ニ過分村内ニ逾(こ)エテ、反ツテ、田器并ニ火災非常ノ用意之レ無ク、召使ノ心宛等見苦シク致ス事。
一 旦那寺尤モ尊敬致シ、先祖ノ年忌法事并ニ喪礼ノ時節、厚ク布施ノ事。富家ヲ以テ水呑百姓ノ布施ニ効フベカラズ。分限ヲ尽スベキ事。但シ地獄極楽ノ虚談ヲ信ジ、親戚子弟ノ中猥(みだり)に出家ヲ遂ゲ、親兄弟ヲ捨テ夫婦ヲ去リ、子孫ノ種ヲ絶ツベカラザルモノナリ。
一 貴賤仁義ノ道理ヲ弁ヘズ、勝手ニ任カセ、安楽ニ耽(ふけ)ル事。
一 村内ニ於テ会約ヲ立テ、吉事凶事ニ親切ヲ致シ、病死人三日より前ヘ地ニ埋メ、万一地下ニオイテ蘇生シテ、其ノ苦痛、骨肉親人ヲ煩ハサザル事。
右、此ノ条々常ニ心ニ掛ケラルベシ。(中村孝編『農家今川状』 『東金市史』史料篇三)
また附録文において、一家ニ主タル者、一村ニ長タル者、地頭タル者は明徳を一身に備へて事にあたるべきであること。富豪農家に生まれても農業を心にかけるべきであること。農事は『農業全書』にあきらかであることを説いている。
寛政十一年(一七九九)、黙斎は六十八歳の生涯を孤松庵で終え、成東町の曹洞宗元倡寺墓地で永い眠りについている。
道学の学風は祖孫継承され、「黙斎忌」などをつうじて今日にいたっている。昭和五十六年、孤松庵跡にちかく黙斎を敬慕する人々の協力で記念の碑がたてられた。