農業生産力を高める条件として多様な要素が考えられるが、用水施設の整備、改善もその一つであろう。農業生産の面からみた場合、房総地方の自然条件は、海岸地帯に共通してみられる土質の不良、河川の欠如からもたらされる用水不足といったことを特色とする。町域の村々も例外ではなく、設備の充実した灌漑施設を欠いたことから、どうしても天水に依存しなければならず、そのため日照りのときは水不足に見舞われ、また低湿地であるがゆえに排水不良に悩まされた。田地の大部分が降水を貯えておく天水田(てんすいでん)であったため、稲の生育に有害な成分が発生し、水田裏作もほとんど不可能であった。したがって、土地利用が半減させられ、房総が、昭和二十四年(一九四九)時点においてさえ、水田一毛作が全国第一位の高い比率(九〇%)を占めていたのも、そのような理由からであった。
なかでも上総地方の用水不足は深刻で、『千葉県農地制度史』によれば、昭和十七年の総水田面積に対する用水不足面積の比率は四一%もの高い比率を示し、一方、排水不良面積も一七・四%の数値をあらわしている。とくに山武郡は、用水不足面積については四二%と上総平均とほぼ同じであるが、排水不良面積は、三九%を示して上総平均を大きく上回り、郡別第一位の排水不良面積となっている。このような用排水設備の不足が耕地条件に反映して、山武郡の明治三十九年(一九〇六)における二毛作田面積〇・一%、昭和十一年(一九三六)の一・一%という低い数値となってあらわれている。昭和十一年の関東全域の二八・五%、近畿全域の六三・二%の二毛作田地率と比較すると、その格差が非常に大きいことが分かる。こうした山武郡ないしは房総の耕地条件の低位性は、当然ながら農業生産力を低い水準に押しとどめ、これを米の反当り収量でみると、全国平均は、明治十一年(一八七八)に一石一升五合、同十五年一石一斗九升、同二十年一石五斗一升七合というように、常に一石以上の反収をあげているのに対し、千葉県の明治十四年までの四年間の米収反当平均は九斗六升二合で一石にも満たない数値である。房総地方における農業生産力の低位な状況は、決して明治以降の農業に固有な問題でなく、江戸時代においてもその状態は変わらなかった。とくに、用水路、溜井、堰の工事の困難さが、水田農業の発展に阻止要因として大きく作用していたと考えられる。しかしながら、町域村々の農民は、この劣悪な用水条件にただ手を拱(こまね)いてばかりいたわけではなかった。天水への依存度がことのほか大きいだけに、溜池や堰堤の築造とその施工技術の改善に努力を払った。