(4) 富田堤の築造

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 南玉の清岸寺には、「南玉の滝」という古くからの滝があって、現在でも豊富な水を流出している。この滝から一〇〇メートルほど下ったところに、その滝水を貯水する周囲約三〇〇メートルの溜池「南玉池」がある。ところで、この溜池の東側に、長さ約一〇〇メートル、高さ約五メートルの大きな堤があり、地元の人たちは、これを「富田堤」と呼んでいる。

写真 富田堤
 
 溜池それ自体は南玉にありながら、その堤の名を、相当離れた下流の富田村に因んでわざわざ「富田堤」と名づけたのには、それなりの理由があった。「南玉村不動山清岸寺縁起写」(富田 横佐内顯家文書)によれば、
 其後、慶長の始め川下富田村の何かし祈願の事あり、成就の恩相応のあらは、寄附仕らんと申伝りしに、住僧の曰く、当境内堤の事ハ旧記にのする如く、往昔よりつきかね堤の化名あり、願くハ、是を修造なさんにハ下用水の便りともなりなんとありしに、何某則その施主として堤を高くつき上、夫より富田堤といふ
とあるように、「慶長の始め」、つまり慶長十二年(一六〇七)ごろ(次出史料)に、「富田村の何かし」が祈願成就の報恩として寄進を申し出たとき、当時の住僧は、用水の便益性を増進させるため堤を改修するよう悟した。それまでは、この堤は「つきかね(築き兼ね)の堤」といわれていた。その名の由来は、頼朝が清岸寺の不動尊に戦勝祈願したとき、住僧に対してこの池の堤は低くて洪水の恐れがあるから、堤を高く築いた方がよいと助言したが、当時は貧僧のため改修能力がなく、それを頼朝が揶揄(やゆ)して「つきかねの堤」と名づけたという頼朝伝説に基づく。
 もちろん、この堤の改修が、単に下流の村々の用水に供する意味だけのものではないことは、次に紹介する史料からも明らかである。慶長十二年、清岸寺の座主から富田彦兵衛尉に宛てて一通の縁起状が出された。それには、弘仁五年(八一四)の開基という由緒ある清岸寺の縁起が冒頭で記されたあと、富田堤の由来が詳述されていた。漢文で書かれた内容を要約すると、以下のようになる。
 清岸寺の不動尊は霊験あらたかな悪魔退散の尊体である。それゆえ流下の「富田邑の長」は宿願があり、二十七日間の参籠断食を行って祈念したところ、祈願が叶ったことから、報恩のため子孫長久の守護霊舎の造立を願い出た。そのとき座主は、境内に安置された弁財天も霊験の尊像であるから、この尊像のために「御手洗水作開発」して「山下之宝池」を造ってくれるよう申し入れた。というのも、そのころ清岸寺は、「是不及僧侶之事力可難之至」の状態であったため、巨大な堤を築くことは、同寺の資力では到底無理であったからである。そこで、富田村の「長(おさ)」が申し出て、「此僕之一心所望之者也」と、「数百有余之人夫山下築」き、「大土手」を造って滝水を貯め、「池中小嶋」に弁財天の祠(ほこら)を移して蓮池とした。ゆえにその名を「富田堤」という。
 この慶長十二年の清岸寺縁起は、後世の写しであるため、記述の内容に検討の余地を残すが、原文をそのまま正確に写し取ったものと思われ、その信憑性はかなり高いと判断される。いずれにしても、前の「縁起写」に登場する「富田村の何かし」は、明らかに慶長十二年の「富田邑之長」と同一人物であり、この「富田堤」を築造したのは、富田在住の横左内顯家の先祖に当たる富田彦兵衛尉であることはほぼ間違いない。富田氏は、戦国武将土気酒井氏の重臣といわれ、酒井氏滅亡後、それまでの本領地であった富田村に土着帰農したものと思われる。
 「富田堤」は、初め弁財天の尊像の手洗水として開発されたのが、結果的には、池周辺の南玉村など、下流の灌漑用水施設として利用されることになった。近世初期の用水設備は、慶長九年の着工から十年間の歳月をかけて完成した雄蛇池(おんじゃがいけ)(現東金市)のように、幕府代官の主導によって開発された大規模な用水池のほかに、この「富田堤」のように、中世武士の系譜をひく土豪的な有力農民によって築造された溜池もあった。当時、一般農民が大掛かりな河川改修工事を行うことは不可能に近く、そのため、引水や番水の特権は、このような灌漑用水を開発した有力農民に帰属するようになった。