天保五年(一八三四)、餅木村の住人たちは、連年の旱魃(かんばつ)により田方に被害が出て、年貢上納に難渋しているので、小前一同で相談したうえ、溜池を新規に築造することを領主に願い出ている(餅木 大野旭家文書)。これは、惣坪数四〇七坪半から高さ三間、長さ三〇間の「土手築立分」を差し引いた三一七坪の広さをもつ溜池である。溜池新築予定地は、図14で示したように、私領分(旗本土岐氏)の治郎左衛門分八八坪と一二一坪、御領所分(代官)の定五郎分一〇二坪、法輪寺分八〇坪、四郎兵衛分一六坪半で、旗本領と代官領とにまたがる場所であった。工事は、材料費八両一分と作料手間代金六両で小西村の職人弁吉が請負った。
図14 天保5年 餅木村溜池平割図 (餅木 大野旭家文書)
この工事に要する費用の捻出は、旗本土岐氏からの拝借金と、「溜池助合と申無尽」金に頼った。その無尽には、村内の農民のほか、源助町の泉水氏や旗本土岐氏家臣などが参画した。掛け金は、一口金二分で、二一口の口数を設け、金一〇両二分を集金する仕法となっていた。そのうち土岐氏家臣二人がそれぞれ一口ずつ、町人泉水次助が五口二両二分の大口を掛け、残り一四口分は、村民と寺院が受けもった。領主や町人に、その資金の一部を出資してもらっているとはいえ、天保五年という飢饉時に、村民の手で溜池を新設できる余力があったことは、注目に値する。
溜池、河川にかかわらず、九十九里平野の中心部に位置する町域村々では、東側の丘陵部を除く大部分の地域が、傾斜を利用した引水を望めず、そのために、一時的に用水路を堰(せき)留めて水位を高めたうえ、田地に引く取水方法が採用された。
この井堰は、溜池と同様重要な灌漑施設であるが、その井堰の形態と構造については、「県令須知」で詳しく触れられている。そのなかに、
川を築切て其れを用水に取、是を堰と云、堰に草堰、洗堰有、草堰と云は、小川又は水の緩き川を、石をかき上げ堰(せく)か杭などを打、軽き柵などにて堰を云なり、洗堰は、泥川にても石川にても堰て、用水の余りは常に其堰の上より流るる様にするを云、其仕様大きなる川は、川下より材木を敷並べ、段々積上げ、木の枝、芝などにて仕立るなり、石川には枠も用なり
と草堰と洗堰の解説がある。中世以前に出現した堰は、そのほとんどが草堰に属するものであったといわれ、現在でも小河川にはしばしば見うけられるものである。
近世、とくに後期には洗堰が主流となり、町域の村々でも洗堰が普及して広く使用された。南飯塚村に、文政六年(一八二三)ごろに製作された堰の図解が残っているので掲示しよう(図15)。
図15 洗堰(南飯塚 富塚治郎家文書)
本体は、堰台と洗堰下地とから成り、この洗堰の場合は、表長四尺余、裏三尺余というごく小さな井堰である。本体の高さは一尺八寸位で、四寸上りの台木は雑木で作られ、水口の三本の支柱と一本の横木には厚板の松が使用され、その間に厚さ一寸の松板が「小口明建之板」として一〇本ほど立てられる。また、洗堰下地は四寸四方の杉の角材が用いられ、同図のように一方が「堰台附し方」で堰台と結合され洗堰が完成する。この洗堰の総工費は、材木代一両一分小二朱、釘代三分と鐚二貫一一六文、職人手間二二人分代金二分二朱小二朱、職人扶持米二斗二升分代金二朱と三七二文の合計約三両である。町域村々では、このような小規模な洗堰が方々でいくつも設置されていた。
堰は堅固で年中流失しないのが原則であり、破損しなければ、定期的に点検するだけでそのまま使用する。もっとも、水量が異常に多くなれば、自動的に流失しない構造では洪水をひきおこすので、小杭木の間に松の葉や土嚢(どのう)などを詰めて、引水を円滑にすると同時に、水位が極端に上昇するときは、自然と流失するよう工夫がなされていた。ところで、堰から引いた取水を、さらにいくつかに分流するとき、その分配量や引水日時については、各地の慣例によりさまざまな比率や取り決めがあった。引水や番水に関しても、村落内で一定の約束がなされているのがふつうで、村内の草分け層や有力農民は、ある種の特権を有していた。したがって、用水を引く順番や引水量の多寡といったことは、村落内での農民相互の身分関係を確認する一つの指標となった。村々の間でも、引水・分水のほか、堰の開閉時期に関する事細かな約束が、上流と下流とで交わされていた。用水を安定的に確保できるか否かは、現代でもそうであるように、江戸時代の農民にとっても死活問題であった。そのため、少しでも自村の方に有利に引水しようとして、村相互間で結ばれた約定を破るようなことがあれば、激しい用水出入にまで発展した。そこで町域の村々が関与した水争いのうち、とくに重要と思われるものを挙記してみよう。