(6) 用水出入

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 町域村々の水論は、元禄七年(一六九四)、真行村・名村と、長谷村・小沼村との堰論、同八年、大網村・仏島村・富田村・南玉村・池田村・大竹村の六か村と、駒込村との堰論、同十一年、北横川村と柿餅村との同じく堰論、宝永元年(一七〇四)、金谷村と大竹村との用水路悪水流入争論、同三年、柳橋村と(上)貝塚村との堰論、元文四年(一七三九)及び文政六年(一八二三)の二度にわたる南横川村・南飯塚村と、北吉田村・粟生野村(現白子町)との堰論、文化十二年(一八一五)、山口村と清名幸谷村との堰論、弘化二年(一八四五)、大網村と仏島村との用水樋争論、安政六年(一八五九)、清名幸谷村と、(上)貝塚村との土手取潰し争論というように、史料にあらわれる村相互間の水論を数えあげるだけでも枚挙にいとまがない。このほか、各村内で起こった用水出入も加えると、その件数は厖大なものとなる。平野部という特色を示して、堰に関する水争いが多発し、年代的には、元禄期を初発として以降、さまざまな水論が村々で発生している。元禄期といえば、農具の発明、進歩に目をみはるものがあり、また耕地の拡大が急速に進んだ時期で、用水を自村の耕作に有利なように引こうとして村々の間で水論が頻発するようになるのも、そうした農業生産技術上における大きな変化と無関係ではなかった。
 右に掲げた水論のなかから、元文四年と、文政六年の二度にわたってもち上った南横川村・南飯塚村と、北吉田村・粟生野村との間で争われた堰場出入について、その発端から経過まで詳しく追ってみよう。この水論は、元文四年の初めごろ、図16で示したように、川上の富田村から粟生野村に至る二〇〇〇間余もの長い用水路について、下流の北吉田村と粟生野村が、上流の南横川村と南飯塚村が勝手に二か所で堰留めしたとして、異議を唱えたことに端を発する。まず、下流二か村は、「五、六人宛昼夜鳶口・鍬抔持参」して、「留場へ立寄」るほどの強硬な手段に出た。この挙動に対し、上流の二か村の農民は、同年九月、粟生野村を分給支配していた旗本原新六郎役所へ出向いて、論所の二か所の堰についてこれまでの慣行を縷々申し述べたが、結局は聞き入れられず、やむをえず今度は奉行所へ訴えて吟味を願い出た。しかし、奉行所では、この争論を取り上げず、双方の村役人が立ち会って、原新六郎役所で内済するよう申し渡した。上流二か村は、原氏が粟生野村の領主であることから、粟生野村側の立場に立った仲裁が行われることを心配して、原氏が仲介に入ることに難色を示した。実際にこの水論の仲裁を担当した原氏手代岩川政右衛門が、「証拠ニも可罷成と奉存候書物片押ニ」して、「絵図之絵ときも御聞不被成」ことに加え、図面上に「私共両村(南横川村・南飯塚村)之堰を御潰」す(図16に堰の記載がないのはそのためだと考えられる)など不当な取り扱いを行ったので、一層態度を硬化させた。しかしながら、最終的には、双方の主張を互に尊重する形で、元文五年十月四日に、次のような内容で一応落着した。

図16 南横川村―粟生野村間用水路
 
 粟生野村・北吉田村の言い分は、まず富田村地尻から南横川村四百尻までの間の用水路については、年々草刈りや堀浚(さら)えを行ってきたことは明白であるにもかかわらず、内郷の南横川村・南飯塚村の二か村が用水路に面した空地芝野を新田にしたため、川幅が狭まって用水不足をきたしたと述べている。この主張には、内郷二か村が二か所で新堰を設けて堰留めしたことに対する非難が含まれている。これに対し、南横川村と南飯塚村は、南横川村地内より粟生野村境までの長さ二〇〇〇間余の川筋は、左右の沿岸とも下郷の北吉田村と粟生野村が主張するような新田ではなく、旧来から存在する古田で、以前から堰場も二か所設置され、草留めなどを行っては用水を引いてきていると反論する。その場合、下郷は、二か所の潤沢な水量を湛える溜池があって用水にこと欠かないのに対し、内郷は、新川や北飯塚村より引水することもあるが、用水時節になると上郷で大量に用水を使用するため、内郷では水不足となり、仕方なく天水場に依存していると水利条件の悪さを強調している。しかしながら、下郷二か村の地内にも、この用水路の水門(図16参照)が設置され、これまでその都度引水してきた経緯もあるので、今後とも双方でこの用水を利用することで決着した。その際、毎年二月に堰留めされる堰場に両方の村役人が立ち会い、堰台の台の高さを田の地形より四寸下とし、また堰台本体の高さを七寸に定め、その堰の形態は洗堰にすることなどを決めた。そして、堀付きの田地だけに用水を引き、渇水のときは、堰台はそのままの状態を保ち、水留めしていた土嚢だけを取り払って水口を開き、南横川・南飯塚両村に二時(とき)、北吉田・粟生野両村に四時(とき)の刻割で昼夜とも用水を引く約束が交わされた。
 この用水路をめぐる争いは、文政六年にも再発し、やはり下郷の北吉田村・粟生野村が、内郷の南横川村と南飯塚村の引水量が多いのを理由に、極度な用水不足になったとして、内郷二か村を訴えたものである。その主旨は、近年、元文度の裁許の約定が守られていないので、旧慣に戻るよう再度洗堰の台の高さや、引水時間の厳守など具体的な分水方法を確認し合おうというものであった。こうして、当時者間で自主的に解決の糸口をみつけ出して、「分水刻割」は、元文度の約束通り、渇水時には、「堰台居置、水口明建致、明六つ時より五つ時迄弐時上郷ニて引取」り、「四つ時より七つ時迄四時下郷ニて引取」るよう確認し合った。つまり上郷は、明六つ時(午前五時)から四つ時(午前九時)まで二時(とき)(四時間)、下郷は、四つ時(午前九時)から七つ時(午後五時)まで四時(どき)(八時間)、それぞれ取水し、さらに上郷は、六つ時(午後五時)から五つ時(午後九時)まで、また下郷は、引き続き四つ時(午後九時)から七つ時(午後五時)までというように昼夜絶えまなく、この時間帯で双方が引水したのである。ところで、先の南飯塚村の井堰について触れた洗堰が、文政六年のこの水論の結果、双方の合意に基づいて作られたものであることは、容易に想像できる。
 用水が農家にとって必要不可欠な生産条件の一つであるだけに、こうした水をめぐる争いは各地で続発したが、村内あるいは村相互間で水利に関する事細かな取り決めを行って、当事者同士で、地域にある水利慣行を尊重しながら、事態の収拾に当たった。